政治に必要なのは現実の直視だ

8月6日。広島に原爆が投下されてから73年が経ちました。広島市中区で開かれた平和祈念式典で広島市の松井一実市長は「核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取り組みを」と各国に核兵器廃絶に向けた動きを促しました。政府としても、安倍首相が核保有国と非核国の橋渡しを務め国際社会を主導する意向を示しています。

しかし、こうした思いとは裏腹に、世界の核兵器削減が目に見えて進んでいるとはとても言えません。一時期の緊張状態は見かけ上緩和されたものの、北朝鮮は依然として核兵器を手放していません。米ロの核削減議論も進んでいません。

こうした現状を踏まえ、式典で広島県の湯崎英彦知事は「お隣さんとは仲が悪いけど、うちもお隣さんも家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてある。だからお隣さんは手を出さないしうちも失礼はしない」という例えを用いて核抑止の考え方を批判しました。そして、良き大人がするべきこととして、「爆弾がなくてもお隣と大ゲンカしないようにするにはどうすればいいかを考え実行することではないか」と主張しました。

確かにその通りですし、それが実行されればこの上ないことでしょう。しかし、うがった見方をすれば理想論にすぎないのではないでしょうか。日本は中国や北朝鮮の脅威からアメリカの核の傘に守られています。もし、それがなくなれば日本が独自に北朝鮮などと対峙する必要が出てきますし、そのためには大きな覚悟と資金的、人的、そして政治的なエネルギーが求められます。

また、非核保有国が核保有国に「削減しろ」と要求しても核保有国には強力な武器があるわけで、残念ながら非核保有国が持つ影響力はだいぶ限られているように見えるのです。筆者は核兵器をもちろん削減すべきだと思います。しかし、現実の世界は核の存在を前提に成り立っており、一時的な緊張はあるにしても微妙なバランスで均衡しているのです。

非核化を議論するときに必要なのは、単に「核を廃止しよう」と主張するのではなく、核がなくなったあとの制度設計ではないでしょうか。それがないまま核が削減ないし廃止されてしまい世界が混乱してしまうと「核があった時の方がよかった」という皮肉な結果になってしまいかねません。

政治家に求められるのは理想論ではありません。現実的な課題を設定し、それに向けた現実的な方策の検討ではないでしょうか。考えるだけで実行の責任を問われない理論家でも学者でもないのですから。

参考記事:

7日付朝日新聞朝刊14版31面「核抑止論を広島知事批判」