被災地ではないからこそ

14日、熊本で最大震度7の地震が発生しました。翌日、15日の朝刊では3紙ともに「熊本 震度7」と一面で報じました。その日の夕刊では、地震の被害状況もわかりはじめ、死傷者の数や余震の多さが報道されています。そして今日の朝刊では「死者41人」。日が経つにつれて増えていく死者数と避難者数。今回の地震の特徴とメカニズムが紹介され、被害の全体像の把握や原因分析が始まっています。

阪神・淡路大震災の教訓は耐震化、東日本大震災の教訓は早期避難。過去の教訓や原因分析を受けて特集される「防災」関連の記事、自戒を込めた記事は、これまでも紙面で見かけていました。しかし、私も含めて人間は忘れっぽいのです。今までも震災があった直後に夢中で読んでいた防災特集面も、いつのまにか朝の時間がないときは読み飛ばしてしまいがちになります。

被災地でない地域に住む人々は地震の規模や大きさを映像や記事でしか感じることができません。だからこそ共有したい大切な事実があります。現場の声です。被害の大きさは具体的な数字でひとくくりにできるものではありません。被災者のそれぞれに夢や希望があり、大切な家族や友人がいたのでしょう。自然災害の怖さを心に刻み込むためにも犠牲者の物語をできる限り、遺族に寄り添って伝える報道こそが求められています。無念な気持ちを無駄にしないためにも、訴えていく必要があります。

また、被災地でないからこそ知りたい情報があります。支援状態についてです。よく報道やSNS上で「支援物資が足りていない」と目にします。どうして足らないのでしょうか。行政や企業の備蓄が不足しているのか、支援物資はあっても余震で行き渡らないのか。一方で、「今、ボランティアに来られても困る」という声もあります。被災地の現状と災害支援にしばしば食い違う状況はどうして起こるのか。本来、きちんと情報が伝えられていれば生じないはずです。社会が一丸になって被災地を支援するためにも、もう少しこの問題を大きく扱ってほしいものです。

記者やディレクターが自分の目で現場をみつめ、人々の苦悩を聞いて記録する。とても地道で時につらいことかもしれません。さらに残酷なことに、時として私たちは身内や大切な人が被害にあわないと、「ひとごと」でしかなくなってしまうものです。「読んでもらえないかもしれない」と扱いを小さくしたり、取材態勢が縮小されたりすることもあるでしょう。しかし、紙面に載せ続け、取材をし続け見えてくる問題点を社会に投げ続けいく。そのことで何かが動かされると思います。

 

参考記事:17日付 各紙朝刊 東京版 熊本大地震関連記事