在中国大使館元職員に聞く[上] 武漢邦人救出作戦の裏側

コロナ禍発生から2年弱。疫病は未だに収束することなく、一般人の海外渡航は厳しく制限されています。しかし、この苦境下でも外務省関係者は世界各地で奮闘を続けています。コロナが蔓延した中国・武漢に住む日本人の救出作戦について、当時、北京の日本大使館で働いていた徳永潤(とくながじゅん)さんに聞きました。上中下3回に分けてお伝えします。

徳永さんは、近畿大学在学中に「外務省在外公館派遣員」に合格し、国際交流サービス協会から、北京の日本大使館に派遣されました。今年9月に任期が満了し帰国したことから、取材に協力していただきました。(以下の写真は、全て徳永さん提供)

徳永潤さん

――まず、在外公館派遣員制度に応募した理由を教えて下さい。

19年の春、大学の友人からこの制度を教えてもらった。2年間海外で、しかも大使館という特殊な環境で働けるのは面白そうだと感じて、ダメもとで挑戦してみることにした。同制度では、毎年2回、世界各地の在外公館への派遣員約70名を募集していて、約20の言語で受験できる。受験言語を英語にするか中国語にするかで少し迷った。英語も得意だったけど、大学で中国語を専攻して、遼寧大学に1年間留学した経験があり、中国に戻りたいなという気持ちがあったので後者を選んだ。

一次の筆記試験では一般常識、日本語作文の課題に加えて、中国語の試験があったが、かなり難しかった。当時、HSK5級(※中国語の検定試験で上から2番目のレベル)を所持していたけれど、おそらく3〜4割しか出来なくて絶対に落ちたと思った。でも、なぜか一次試験を突破。二次面接から数週間経った後、電話がかかってきて「北京の大使館勤務はどうですか」と。応募時には、最大5ヶ所まで赴任希望地を選べて、瀋陽、上海、北京の順で応募していたが、行けるならどこでも良いと思って快諾した。

のちに分かったことだが、同制度では、応募者がどこを希望するかよりも、大使館や領事館がどんな人材を希望するかということを優先して、赴任地を割り振っているらしい。北京の大使館側は、派遣元の協会に対して、体力のある男性を求めていたとのこと。コロナ以前は、北京は日本からの外務関係者の出張が最も多い場所だったから、派遣員の主な仕事である「便宜供与」、要人を空港まで迎えに行ってホテルまで送り届ける仕事が頻繁にあった。中国語枠で二次面接に進んだ人のうち、男は自分だけだったので、北京に派遣されることは必然だったようだ。(※派遣員の合格者全体では、78%を女性が占めている)

 

――大使館での職務は。

外務省本省での5日間の研修を経て、19年9月に着任した。大使館には、政治部、経済部、領事部、広報文化部などがあり、総務部庶務班に配属されることになった。仕事は、①要人の空港支援や航空券・ホテルの手配、②館員の外交人員証および外交マルチ査証の取得、第三国ビザの申請、③外交貨物等の税関手続き、④館用車16台の管理など。雑務全般を、派遣員3人で分担して行っていた感じかな。

コロナ前は、日本からの出張者が週に何人も来ていたから、本当に忙しかった。出張者の中には、最終便などで夜遅くに着く人がいて、その出迎えやスーツケース運び、ホテル送りをしていると、深夜1時、2時になることも多々あった。館員の出張のホテル予約やフライト予約もしていた。一番忙しいときは、月100時間超の残業をしていて、土日に出勤することも。在任期間中に、日本での働き方改革の波が在外公館にも押し寄せるようになって、途中から残業や休日出勤はほぼなくなったけどね。

外務省本省をはじめ、日本の様々な機関から定期的に荷物が送られてくる。それら大使館の荷物は関税課税の対象外になるため、無税で引き取るための手続きをするのも仕事だった。また、館用車にそれぞれ中国人の運転手が決まっていて、大使館員が車で出張するときに、二者の連絡を取り持つ。車が故障した際、修理工場に連絡して見積もりを取り、修理を手配することもあったな。他に、館内でレセプションがあるときに、ホテルに連絡して最大1200人分の料理をケータリングしたりもした。とにかく雑務全般を扱い、何でも屋として、広く浅く様々な業務に取り組んだ。

ちなみに、コロナ直前期には、北京大興空港という新しい巨大国際空港が出来上がった。とても先進的で綺麗な空港で、六本足のヒトデのような形をしている。古い方の首都国際空港は大使館から車で30分くらいだったが、新しい空港は車で1時間。道路が混雑している場合は2時間かかったので、不便で苦労したよ。

万里の長城(21年5月)

――そして、コロナが発生しました。

日本の年末、中国の旧正月にも近い時期だった。当然、大使館は12月末に武漢の情報を入手していたはずだけど、まさか重大事態に至るとは考えていなかった。皆、普通に休暇を取っていたし、いつも通りの休日を過ごそうと思っていた。当初は、人間の間で感染せず、動物からヒトに感染するのみとされていたから、若干安心していた部分があったかもしれない。日本人の大使館員は帰国している人が多く、普段の3分の2未満しか館員がいなかった。

1月上旬から、みんな「これはおかしいぞ」と思い始め、怪しい空気が漂い始めた。中国政府も一気に強硬策を取り、同月23日に武漢を都市封鎖。当然、大使館は事前に対応する間も無く、任務は後手後手に回らざるを得なかった。今でも鮮明に覚えている。休暇中だった1月中旬のある日、夕方6時頃に上司から呼び出された。「今、館員全員に緊急招集をかけているので、大至急、大使館に来てくれ」。北京に残っている館員は、全員集められた。そこで当時の武漢の状況の情報共有がなされ、これから大使館がしていく計画の説明があった。

武漢に大使館員を数人投入することが、既に上層部の判断で決まっていたみたいで、館内で「武漢突入支援チーム」が結成された。その大使館員を投入させるミッションにおいて、武漢に侵入する経路と現地で宿泊する場所を探すことが総務部庶務班の仕事だった。部署は平時5人いるが3人が休暇で帰国しており、当時2人だけ。大使館全体が人手不足だったし、2人であろうと何とかするしかない、と覚悟を決めた。

武漢に至る飛行機や鉄道はストップし、道路も完全に封鎖されていた。どうやって入るか。武漢市を囲む全ての自治体に電話をかけて、武漢市への道が通行可能か聞いたが、「開いている訳ないだろ」。我々が大使館であるという事情を説明しても「無理だ」と突き返されて困った。最終的に、より上の人間で調整してもらうしかないとなって、大使館の幹部が掛け合った結果、ある陸路を通じてバスで入れることになった。ああ良かった、とチームは一安心した。

館用車で最大20人程乗れる大型マイクロバスに、大使館のナンバー2を含む館員7人が乗り込み、食糧や水も大量に積み込んで、10時間以上かけて1100キロ以上離れた武漢へと向かった。武漢行きバスの運転は、下手したら命に関わる危険な任務だったが、中国人のドライバー3〜4名が挙手。うち2名にお願いして、交代で運転してノンストップで武漢に到着することが出来た。バスを大使館から送り出すシーンは鮮明に覚えている。「203高地」に兵士を送り出すような感覚だった。当時、武漢の病院は全て満床で医療崩壊に陥っていたので、現地で感染したらどうしようもなかった。ドライバー2名はよくぞ申し出てくれたと思う。今振り返っても、本当に敬服する。幸運にも、運転手含め大使館関係者9人は、現地で感染せずに済んだ。武漢に到着してから、マスクを二重、三重に付けていただけでなく防護服も着用して、徹底した感染防止策をとっていたらしい。

武漢突入チームは現地で宿泊する必要があった。侵入ルートだけでなく、ホテルを見つけるのも、自分の部署の役目。緊急事態ゆえに、どこのホテルも宿泊客を受け入れていなかった。50ヶ所くらいに電話かけても、どこもやっていない。どうしようかと悩んだが、「緊急事態で、外交団の方も大変でしょうから、受け入れますよ」と、ヒルトンホテルが言ってくれて本当に助かった。取り敢えず2週間分予約した。その後、延泊を繰り返したのだけれども。侵入経路とホテル探しは、かなり難儀したな。現地に行った人はもっと大変だったと思うけど。

Google Mapより

――何とか武漢に大使館員を送り込むことが出来て良かったですね。その後は、武漢チームが現地邦人の情報を集めつつ、飛行機に乗せて帰国させたのでしたよね。

チャーター便の乗客名簿を作るミッションが生じて、北京の大使館に残った人たちが対応した。まずは、邦人の情報を収集して、帰国便に関する情報を発信する。外務省のウェブサイトで在留登録した人に、メールを一斉送信。武漢在住者を対象に、チャーター便に乗って日本に帰国したい人は返信下さい、という旨を連絡した。商工会議所のようなビジネスしている日本人の団体もあったから、そこの人にも情報共有をお願いした。留学生も多い地域だったので、大学に連絡して、日本人学生に特別便の情報を伝えるようにして下さいとも伝えた。大使館のウェブサイトにも掲載したし、ありとあらゆる媒体を使って、武漢の邦人全員に漏れなく情報が届くよう試みた。

次に乗客名簿を作ったが、それがとても大変な作業だった。というのも、様々な事情を抱える人がいたから。夫婦で国籍が異なる人たち。日本国籍を持っていて日本のパスポートを保有しているものの、日本語を話せない中国出身者。病気を抱える人。本当に多種多様な人たちがいた。その一方、最初は飛行機に乗るのに条件が設けられていた。全部で5便のうち、1〜3便目までは中国人配偶者を乗せられなかった。

大使館では、武漢でコロナ禍が発生した直後から、24時間対応の緊急ホットラインを3本開設。6時間交代で、僕もその電話対応にあたったが、開設直後はひっきりなしにかかってきた。その中でも、日本からのある1本の電話が記憶に残っている。

「妻と子供が取り残されているので、何とかして乗せてもらえないか」。年末年始の時期ゆえに、日本人の父親だけ日本に帰っていて、中国人の母親と子供は実家の武漢に残されており、その父親から相談が寄せられたのだ。ルール上、初期段階において中国人配偶者は対象外だった。搭乗させることは不可能。「もう少し待てば大丈夫ですよ。乗れるようになりますから」とか「2週間くらい待てば乗せられますよ」とは、正式に決まっていない限り、話すことが出来ない。電話越しでも、相手が泣いているのが分かって、歯痒さと申し訳なさで胸が詰まった。とにかく応対の度に、精神が擦り減っていくのを感じていた。今思い出しても本当に、本当に辛かった。後回しにはなったものの、最終的に、その人の妻子の名前が第4便か第5便の乗客名簿に載っているのを見たときにはすごく安堵したなあ。

他にも、持病を抱えており、薬が尽きたから一刻も早く日本に帰らなければならない人がいたりして。そういう切迫した状況の人は優先的に乗客名簿の前の方に配置したりもした。基本的には皆平等に扱っていたけど、様々な事情を踏まえ、北京チームが調整して乗客名簿を作っていた。

日本からの問合せも数多く寄せられた。メディア関係者と思しき人からも時々電話がかかってきて、何とかして情報を取ろうと大使館内部のことについて聞いてくるけど、どう対応すれば良いのか分からず難儀した。そこでの応答は、大使館では下っ端職員である自分の発言も、大使館の公式発言として扱われてしまう。誤った情報は絶対に伝えられない。うまく対応できたか分からないけど、出来る限りの範囲で誠実に回答したつもりだ。

また、約半分は中国人からの電話だったので、中国語で通話しなければならなかった。既に半年間働いていたから会話には慣れていたが、それでも生命に関わる超重要な情報を中国語で発信するのはプレッシャーだった。日本語でも緊張するのに。あのときほど自分の中国語能力のなさを恨んだことはなかったね。もっと勉強しておけば良かった、と思って。

普通話(標準語)とは異なる方言の問題もあった。武漢は方言の訛りが強い地域だったから、聞き取れなくて苦労した。本来は、公式のメールを通じてやり取りをしなければならないのだけど、最終手段として、メッセンジャーアプリ(微信)に対応専用のアカウントを作って個別対応。テキストメッセージなら訛りに関係なく、意思疎通を図ることが出来た。

ちなみに、北京大使館から武漢に突入した7人とバスの運転手2人は、日本の本省から新しい人員が投入されるのと入れ替わりで、第4便に乗って日本に帰ることになった。その7人は、武漢から日本に行くことを想定していなかったから、パスポートを北京に置きっ放しにしていた。ここで、館員と運転手にパスポートを届けるミッションが発生。郵送は無理なので、パスポートを北京から東京に持っていき、東京から武漢退避用の飛行機の往路の便を使って送り届けるという仕事が生じた。運転手2名は、日本に到着後、隔離期間を経たのち、外務省で大臣から表彰された。北京に帰った後も、在外公館長表彰をもらって、褒め称えられていた。本当によくやってくれたと思う。あの運転がなければ、何も始まらなかったから。

その後、湖北省だけでなく、浙江省や河南省、広東省でも感染が拡大したものの、チャーター機を飛ばす事態には至らずに済んだ。武漢が大変な状況に陥っていたから、他地域の邦人は早めに日本に帰っていたのだと思う。武漢からの飛行機も第5便で一旦落着。帰国を希望した人は一人残さず全員日本に帰すことが出来たから、ミッションは無事完了した。NHKの特集記事『武漢退避!その舞台裏』(20年2月5日)や毎日新聞の記事『中国・武漢の日本人退避 いま振り返る前例なきミッション 植野篤志前中国公使に聞く』(20年8月16日)にも裏事情が詳しく載っている。ぜひ参考にして欲しい。

【 [中]『大使館業務の実態 』はこちら】

【 [下]『北京暮らしと地方旅行 』はこちら】

上海旅行(21年6月)

特集記事 編集部ブログ