在中国大使館元職員に聞く[中] 大使館業務の実態

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――武漢邦人退避オペレーションが終わった後は、何をしていましたか。

コロナ前の要人への便宜供与などの仕事は一切なくなり、最初の1ヶ月間は暇だった。しかし、大使館は1年間で3分の1が入れ替わる。定期的にやって来る新しい職員のケアが主な仕事になった。北京は直行便がなくなったので、赴任者は大連や上海を経由して来京することになるが、例えば大連経由で入ってくるとなれば、大連市政府に対して「今度、うちの外交人員が来るので、宜しくお願い致します」と連絡。色々調整した上で、次に大連市のホテルを予約する。そして、東京にある中国大使館がビザを発給するので基本は本省がやる仕事だが、必要なところは北京の大使館からもプッシュして、ビザを取得して、ホテルに泊まらせて、飛行機に乗せて北京に入れる。そんな新しいミッションの対応に、総務部庶務班はあたった。コロナの状況に応じて、入国者の隔離期間が頻繁に変わったから、その都度調整が必要となり厄介だった。

館全体の雰囲気も、暫くの間は落ち着いていた。外部の人との会食がなく、大使館のイベントも全て自粛していたから。20年の夏以降はコロナが落ち着き、小規模なイベントの開催や、人数制限したうえでの会食が可能となり、館内に段々と活気が出てきたのを感じた。帰国する前、今年の夏には、100人規模のイベントも実施していたよ。当然、感染症対策はとっていたが。

市民との交流(19年11月)

――コロナ禍以外に、緊急事態や自然災害などの問題は生じましたか。

最近、中国は水害が多い。昨年の夏には、中部地域が大洪水に見舞われ、世界最大のダムと言われる三峡ダムが歪んでいるとのニュースを目にした。今年7月には、河南省鄭州市で、大雨によって地下鉄が水没する事故があり、9月には四川省で震度5くらいの地震もあった。自然災害が発生したときは、大使館経済部のインフラを担当する担当官が、災害の規模などを調査して、本省に報告する。担当官は被災地域に対するお見舞い状を作成して、大使館名義で出す仕事もこなしていた。水害などで日本人が被害にあった場合は、領事部も動くことになるが、幸い、日本人が死傷するような出来事は、赴任期間中無かったはずだ。

 

――大使館で外交機密に触れる機会はありましたか。その取り扱いは。NHKの記事には、現大使が盗聴に備え、携帯電話を何台も所有しSIMカードは頻繁に使い捨てた、とありましたが。また、上海の総領事館では、機密情報を巡って職員が自殺する事件が過去に起きました。

外交機密に触れる機会はなかったが、垂大使が就任されてから、情報の取り扱いが一層厳しくなったのは肌身で感じた。僕は携帯を複数台所有したり、SIMカードを取り替えたりしてない。私用の携帯の他に、仕事用の携帯は支給されていた。日本の一般企業でもよくあることだが。内部文書の類は、機密情報のレベルに関わらず、常に厳重に扱っていた。

上海の総領事館で職員が自殺した事件は当然知っている。派遣前の外務省での研修で、事件に関するレクチャーを受けた。北京に赴任した後も、上海の事例を教訓としてハニートラップには気をつけろよ、という話が上司からあった。220を超す在外公館の中でも、中国で起きた事件だったので、館員は皆気をつけていたように思う。

 

――そもそも、大使館はどれくらいの規模で、どんな人材がいましたか。

相当大きくて広かった。階数で言えば6階、人数は約200人が働いている。日本人館員のうち、外務省員は50人余り。他は他省庁からの出向者や外部から派遣されている嘱託職員や専門調査員など。総務部警備班には、全国各地の都道府県警や警備会社から派遣されている人がいた。経済部には、電気通信事業会社や大手自動車メーカーからの出向者も。様々な人材が働いており、面白い職場だった。

在中国日本大使館の外観(21年3月)

――外交の最前線で、何か感じたことは。

外交の交渉現場に立ち会う機会は一度もなかったけれど、交渉に立ち会う人のサポートをしていた。交渉する人たちが、両国にとって利益があることにフォーカスして、政策をまとめているなということを、傍から見て感じた。例えば、国交省から出向してきた、中国のインフラ事情に詳しい館員。中国は08年の四川大地震や昨今の水害のように、大規模な自然災害が頻繁に起こるものの、日本の緊急事態速報のような災害時対応がうまく機能していない。彼は、日本が長年構築してきた防災システムやノウハウを中国で導入して普及させていく活動に取り組んでいた。逆に中国側から関連情報を譲り受けることもあり、互いに必要な情報を交換するのは良いことだと感じた。防災を入口として始まる日中交流もあるのだと感銘を受けた。

 

――現地で交友関係を築くのに苦労しましたか。共産党の要人に会う機会はありましたか。

当初は、友達が全くできず苦労した。大使館があるエリアは、大学が密集する地域の真反対で、学生の友達が見つからない。その分、JALやANAの大使館窓口の担当者を始め、社会人と交流する機会は多々あった。航空券を購入するときは、主に中国現地の旅行代理店を経由して購入していたので、代理店の中国人の担当者とも親交を深められた。さらに、ホテルの担当者も。大使館との連絡窓口となるホテルマンが営業しに来たり、逆に自分がホテルの見学に連れて行ってもらったり。仕事をきっかけに付き合いが出来て、たまにご飯にも行った。大使館内部の人と飲む機会もあり、充実していた。

中国共産党の要人を間近で見る機会はなかったが、日本の要人は何回か目にしたよ。茂木外務大臣や安倍総理とか。安倍総理は、19年12月に日中韓ビジネス・サミットが成都で行われる際、北京を経由して向かった。僕は総理のスーツを運んだ。運びながら、もし無くしたら大変だな、なんてことを考えたりして手が震えたのを覚えているよ。

北京首都空港にて、安倍総理が乗る政府専用機を出迎えた(19年12月)

――20年11月までは横井裕氏が、同年12月からは垂秀夫氏が駐中国特命全権大使を務めていました。

横井大使と対面で話したのは、僕が着任した直後に挨拶した1回限り。垂大使とは2回食事の機会があった。垂大使は昨冬に着任した後、館内の日本人全員と、部署ごとに5〜6人ずつと会食していて、自ら積極的に館員とコミュニケーションを取りにいかれる方だった。僕が帰国する際も送別会を開いてくださったので、ゆっくりお話する機会があった。平の派遣社員と社長ぐらい身分が違うので、会食の際は緊張したな。横井大使も話が面白いと聞いていたけど、垂大使も大阪出身ゆえか、会話の中に冗談を交えるユーモア溢れる方で、人間味を感じた。知識の引き出しの多さにも驚いた。「徳永くん、派遣員の任期を終えた後はどうするの」「大学に復学します」「どこの大学なの」「大阪の近畿大学というところです」「ああマグロの大学ね」となり、魚の話をし始めた。どんな話題でも付いていけるのだろうな、と思った。

垂大使は写真撮影を趣味にされており、館内にも写真が多く飾ってあった。何でもとことん突き詰める凝り性タイプの方なのかも。週末は写真を撮りに行くようで、来客に自分が撮った写真をプレゼントすることもあると聞いた。僕も写真がプリントされている絵葉書を貰ったよ。

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