夜10時半 大阪梅田駅。家路に急ぐ人が行き交うなか、旅行会社の前に数人の警察官の姿があった。何が起きたのだろうと見ると、40、50代の仕事帰りだと思われる男性が倒れていた。横向けに倒れ、動かない。そのそばで、妻だと思われる女性が腕で涙をぬぐいながら「起きてよ、起きてよ」とばかりに男性の背中を何度もさすっていた。警察官は「かわいそうだがどうしようもできない」という様子で見守っていた。
行き交う人はその様子を横目で見るが、立ち止まる人はいない。私も胸に鉛のような重みを感じながら、すぐそばのセブンイレブンで飲み物を買った。店を出てから、男性が倒れている現場をまたちらっと見た。すると、警官の後ろから、20代くらいの男性がバレないように携帯電話を斜めに傾け、動画を撮っていた。
私はその不謹慎さ、配慮の足りなさに激しい怒りを感じた。夫の危機的状況に立ち会い、まさに人生の岐路に立っている妻。そんな重く、重要な出来事に軽々しくカメラを向けることが許されるのだろうかと疑問に思った。その映像は、「すごい動画を撮ったんだ」と、友人に見せるのだろうか、それとも、SNSに上げるのだろうか。しかし、この怒りと同時に、ある問いが浮かんだ。「記者もやることは同じなのではないか」。
ここでは、この出来事をきっかけにした筆者自身の思いを綴る。そこでは記者はどんな気持ちで、どんな姿勢で遺族や辛い思いの人と向き合わねばならないのかという重い問いかけに行き当たる。
記者の仕事で避けて通れないのが、事件や事故、災害に遭った遺族への取材だろう。昨日まで一緒に過ごしてきた日常が断ち切られた衝撃、喪失感、孤独感、そのような形で家族を失ったことのない私には分からない気持である。この梅田にいた女性の夫が回復しなかったとして、数時間後に取材するとしたらどう聞けば良いのだろうか。女性はどのような気持ちになるのだろうか。
1週間後は深い悲しみの中にいて、ただ泣くことしかできないかもしれない。1年後は感情が整理され、言葉に表せるようになっているかもしれない。時がたつにつれて感情は変わりゆくだろう。じっくりと遺族に向き合い、彼らの感情の変化を見守ることが重要なのではないか。遺族取材にあたる記者には、長期にわたり、遺族と関係を保つ人が少なくないと聞いた。年賀状を送り、命日に訪れる人もいるという。
女性への取材では、彼女の気持ちに対して「分かった」と言わないことが重要ではないか。彼女が語る気持ち、醸し出す雰囲気に耳を澄ます。しかし、本当の気持ちについて、彼女自身も容易には整理できないだろうし、ましてや他人である記者に分かるはずはない。「分かりました」と言ってしまえば、記者は気持ちに耳を傾けることをやめ、自分自身で解釈することになりかねない。
寄り添うという態度も違うと思う。当人でさえ自分の気持ちが分かっていない時に、どう寄り添えばよいのか。寄り添うという態度は、気持ちが「分かった」ことが前提になっているはずだ。
私自身は、遺族の故人との最後の時間や、気持ちの整理の時間を大切にする記者でありたい。
3カ月前、同志社国際高校の女子生徒が、研修旅行中に、船の沈没事故で亡くなった。彼女の家族は自身が書いた手記などをインターネット上に公開している。そこには、娘が亡くなった場所を一目でも見たいことから、メディアの人に会わないよう、早朝6時に出発したこと、記者と思われる車が到着したため、逃げるようにその場を離れたことなどが書かれていた。「もっと話しとけば良かった」、「娘の最後はどんな様子だったのか」。これらの疑問や後悔の気持ちを整理するには、故人との最後の時間が必要な人も多い。そんな大切だという言葉ではおさまりきれないような時間を邪魔する記者にはなりたくない。
手記には、匿名報道を守った人々への感謝の気持ちが書かれていた。一方で、誤解を招くような情報を流したメディアに傷ついたそうだ。取材や報道をされる側は世の中の好奇の目にさらされ、批判されるリスクを背負っている。SNSで誰もが意見を表明できる今、以前よりさらに「一言」や「一文字」に注意しなければならないのではないだろうか。
冒頭の話に戻る。スマホでバレないように現場を映していた男性と記者はどう違うのだろうか。記者が取材対象への敬意を失い、自分の実績や承認欲求だけを追い始めたとき、その違いは限りなく小さくなる。「スクープを取りたい」「バズる動画を上げたい」という双方の気持ちは根底でつながっているように見える。
記者は会社や自らの名前を背負い、取材対象や読者から批判を受ける立場にある。一方で、SNS上の動画投稿は匿名が多く、撮影者の責任が見えにくい。しかし、それだけが両者を分けるものではない。
逆に、なぜこの出来事を記録し、社会に伝える必要があるのかを問い続けるならば、そこにジャーナリズムとしての意義が生まれる。遺族にとっては、カメラを向けられるという事実に変わりはない。だからこそ記者は、自分の行為が相手の目にどう映るのかを常に考え続けなければならない。
あの日、私は動画を撮る男性に怒りを覚えた。しかし今振り返ると、その怒りは記者という仕事にも向けられかねないものだった。他人の人生の最も苦しい瞬間を記録することは、本当に許されるのか。もし記録するとして、どのような態度で取材し、向き合えばよいのか。私にはまだ答えが分からない。
ただ、自分が何のために撮影し、何のために話を聞くのかを問い続ける記者になりたいと思う。
参考資料
