飯田恭子(はんだ・きょうこ)さん(88)の左腕は、今も思うように動かない。1945年8月2日未明、当時小学2年生だった彼女の左肩に米軍のB29が投下した焼夷弾の破片が突き刺さった。治療は麻酔無しで行われ、傷口に盛り上がった肉芽は、はさみで切り取られたという。
市街地の99.5%が焼き尽くされ、2700人以上の命が奪われたとされる富山大空襲。地方都市では人口比で最も多くの犠牲者を出した。
2026年7月30日から8月5日まで、富山県高岡市の生涯学習センターで「富山大空襲展」が開催されている。空襲に至る経緯、惨状、そして富山の復興の歩みを追体験できる。
この展示を中心となって企画したのが飯田さんだ。当時は、戦争の意味も「国を守る」という言葉の意味も分からなかった。周囲の大人が次々と出征していく様子を「まるで鬼退治にでも行くのかと思っていた」と振り返る。幼い少女にとって、戦争はそれほど現実味のないものだった。
戦後、飯田さんは医師となり公衆衛生の道を進んだ。医師を志したのは、焼夷弾の破片を受けた左肩を治療してもらった体験からだ。県内各地の保健所長を務め、定年退職したのち、21年に市民団体の「富山大空襲を語り継ぐ会」に入会した。語り部として、自身の空襲体験を伝え続けている。
自身のアイデンティティを考えるとき、辿り着くのは「空襲に遭い、この体になった自分」だという。「空襲で、言葉にならない無念を抱えたまま亡くなった人たちがいた。大人になることもできずに命を奪われた子供たちがいた。生き残った私が伝えなければ、私がここに生きている意味がない」。
生き残った者の責務として、こう強調する。「『戦争という手段で問題を解決しない』。この80年間守り続けてきた原則を、さらに確かなものにしなければならない」。
「体験者なき戦後」 記憶を風化させないためには
富山県内には富山大空襲を伝える常設の資料館がない。語り継ぐ会は、1994年の設立当初から県や市に建設を訴え続けているが、現在に至るまで大きな進展は見られない。
一方、新潟県長岡市は、長岡空襲の惨禍を記録・保存し、伝えるべく、「長岡戦災資料館」を2003年に開設。市によると、18年には来館者が30万人に到達し、今年5月に移転オープンを果たすなど、市の積極的な姿勢が伺える。
筆者は高校卒業までの18年間を富山県で過ごしたが、富山大空襲の詳しい実態を知らずに育った。地元で暮らす若者の多くは似たような状況にあるのではないだろうか。
毎年8月1日には、犠牲者を悼み平和を祈る花火大会が神通川河川敷で催される。1日の夕暮れ時、富山駅には華やかな浴衣に身を包んだ多くの若者たちの姿があった。その中で、どれほどの者が、富山大空襲に思いを馳せていただろうか。
まもなく戦後81年を迎え、「体験者なき戦後」が始まろうとしている今、記憶の風化をいかに食い止めるか。私たちは大きな岐路に立たされている。
