「コミュ力」教が生み出した「残虐な怪物」たち

 「自分(お前)、めっちゃノリええやん!」

 他人からそう言われて、不快になる人はまれだろう。

 『実用日本語表現辞典』によると「ノリ」とは「盛り上がった場の雰囲気にうまく順応して、自身もハイテンションで盛り上がっている様子」を意味し、「明るく笑顔で会話し、提案などに積極的に同意するなど、社交性が豊かな人を指して用いられることもある」とされている。

 つまり、ノリがいい人とは、その場の空気を巧みに読み取り、場を盛り上げる能力に長けた人。今風に言えば、コミュ力が高い人なのである。

 社会学者の竹内洋氏が「現代日本に妖怪が徘徊(はいかい)している。コミュ力という妖怪が」と指摘しているように、現代日本はコミュ至上主義社会と言って差し支えのない状況である。「老いも若きも」とまでは言わぬものの、若年層から40歳代の中年層にかけて「コミュ力」教の信者が多数いる。筆者の身の回りの大学生に至っては、そのほとんどが熱心な信奉者であり、芸人の喋り方やツッコミを真似し、日々「コミュ力」を研鑽している友人も少なくない。

 これほどまでに「コミュ力」教が浸透してくると、その構成要素である「ノリ」の良さは大変重要になってくる。飲み会や遊びの場でも、我先にとヤジを飛ばしたり、場を盛り上げたりできる人物は重宝され、人気を集めがちである。

一方、寡黙でおとなしい人物は周囲からコミュニケーション障害、つまり「コミュ障」と揶揄され、排除されたり、時には虐げられたりする傾向にある。まるで、中世ヨーロッパの魔女狩りの如く。

 東須磨小学校での教諭間のいじめが世間の耳目を集めている。激辛カレーを強要し、用紙の芯で臀部が腫れるまで叩くなど、常軌を逸した加害教諭らの振る舞いは世間から厳しい批判を浴びている。

 確かに、彼らの行為は許されない。では、なぜ彼らはそれ程の振る舞いに及んだのか。筆者は加害教諭らが「コミュ力」教の信者であったからではないかと推察する。

神戸市教育委員会によると、「中核をなす教員」「東須磨小学校では中心となる人物」であったそうだ。学校という閉鎖的な空間で頭角を表すためには、実績と同時に、周りとの円滑なコミュニケーションを保つことも欠かせない。さらに、中核的存在であるということは、生徒たちの支持も得ていたことを示しており、「ノリが良く」、元気のいい先生であったのは容易に想像がつく。

校長によると「加害教諭と被害教諭は2018年度までは良好な関係にあったが、加害教諭が被害教諭のプライベートなことを他の教員に話したことがきっかけに疎遠になった」そうだ。そして、被害教諭に対していじめが始まったとされる。

 教員社会で中心に位置する加害教諭にとって、自分と話さない疎遠な教諭は「コミュ障」としていじめの対象となりがちだ。

加害教諭の一人は「自分がおもしろければよかった。被害者がそんなに嫌がっているようには思えなかった。悪ふざけがすぎていた」と述べている。

 「おもしろければよかった」という暴言は、「コミュ力」教の信者である教諭らが場を盛り上げるため、「ノリ」感覚でいじめ行為を繰り返していた実態を示している。筆者にはそう感じられてならない。

 ノリがよく、コミュ力が高いことは決して悪いことではない。しかし、行き過ぎれば、そうした空気についていけない他者を虐げることにもなりかねない。このことを私たちも肝に銘じなければならない。

参考記事:

10日付 読売新聞朝刊(大坂13S)33面(社会)「教諭いじめ「1年以上前から」」

神戸新聞NEXT「東須磨小・教員間暴力 校長会見「4人中2人は前校長と親しい関係」

https://www.google.co.jp/amp/s/www.kobenp.co.jp/news/sougou/201910/sp/0012774681.shtml%3fpg=amp

THE SANKEI NEWS「万能薬のように徘徊する「コミュ力」という妖怪 「近代型能力」あってこそ」

https://www.google.co.jp/amp/s/www.sankei.com/column/amp/170403/clm1704030005-a.html