書けなくなったとき、助けてくれたのは

普段は言葉足らずなのに、文章では饒舌なので驚いた。あらたにすの筆者の投稿を読んだ姉の感想である。これには苦笑するしかない。普段から愛想があるほうではないけれど、家族の前ではさらにぶすっとしてしまう。口数もいつもの10分の1になる。自分ではそれなりににこにこしているつもりなのだが、「テンションが低い」「目が笑っていない」と色々な人に言われるので、感情表現が豊かな人がうらやましい。

世間では泣ける映画、感動する作品への支持が厚いという。「涙活」という言葉もある。朝日新聞の記事では「右肩上がりの社会を前提とした物語はリアリティーを失い、身近で心温まる人情ものが好まれるようになった」と文芸評論家の末國善己さんが分析する。

人前で感情をあらわにするのが苦手な私は、涙を流すときも一人だ。特に昨年は、明かりもつけずに暗い部屋でよく泣いていた。自分の体型や顔が気に入らなかったり、人のささいな言葉に傷ついたりと理由はさまざまだ。元気のバロメーターは、私の場合「書くこと」である。4月から就く記者という仕事もこの作業が欠かせない。それが、ほぼ毎日くよくよしていた時期は涙と一緒に自分の中の言葉や思考の蓄積も流れ出てしまったようで、書く意欲がまったくわかなかった。

失われた「自分の言葉」を取り戻すために、ほかの人が書いた文章をたくさん読み、言葉を吸収した。特に印象に残っているのが、「村上さんのところ」(村上春樹・著)だ。同名の期間限定サイトに寄せられた3万7465通の質問から選ばれた、473通のやりとりが収録されている。

国籍も年齢も立場も違う人たちが「感受性の磨き方を教えてください」、「『時』は何を解決してくれますか?」、「おおきなかぶをぬいてどうするの?」など好き勝手に問いかける。みんないろいろなことを考えて生きているんだ、と改めて感じ、無性になごんだ。そして村上さんの回答がまた秀逸なのだ。どんな無茶な質問にも真剣に、ときにはユーモアをまぜながら答えてくれる。こうやってみんなの言葉を受けとめてくれる人がいるということにほっとした。姉に言わせれば「読んでいると頭が痛くなってくる」村上春樹だが、彼は読者をとても大事にする作家なのだ。

苦しいときは人に相談する、頼るということはとても大切だ。自分が本当に求めている答えは他人からはなかなか得られないものだが、誰かの支えがなければどん詰まりになってしまうことも多い。筆者の場合はそれが村上さんと顔も知らない人々とのやりとりであったように、私たちは己の外部の力を借りながら、悩み苦しみ、それすらも糧にして前に進んでいく。

参考記事:1日付 朝日新聞朝刊(東京12版)37面(文化・文芸)「(感情振動 ココロの行方:1)“泣けるいい話”好きですか?」