アイデンティティーと向き合うこと

 私は女性です。
 突然何を言ってるんだ、と思いましたか。なにも、単純に性別のことだけを言っているのではありません。私の個性のひとつとして、私は生物学的にも、おそらく精神医学的にも女性だと言いたいのです。
 難しい言い回しをしましたが、いわゆる普通の女性なので、性別に関して今までの人生で特に苦労をしたことはありません。けれど、世の中には「普通の男性・女性」とは言えない人々が少なからずいることは、皆さんもよくご存じのはずです。
 男性の体を持って生まれたが、育った心は女性だった。その逆も然りですが、トランスジェンダーと言われる人々を社会でどのように受け入れていくか、といった議論をよく見るようになりました。

 朝日新聞社では、「トランスジェンダーの学生――多様な女子の受け入れにはどのような課題があるか」という調査を全国の女子大学を対象に実施しました。結果は以下のようなものです。

・「受け入れを検討していないが、検討するべき課題だと考えている」(対象の6割強)
・「大学の教育理念に基づき、教育において『一人も取り残さない』という考え方から(中略)受け入れを検討することは必要だと考える」(聖 心女子大学)
・「『入学資格があるか」といった問い合わせはまだないが、あった場合は個別に出願資格調査を行う」(同上)
・「生物学的な意味での女性ではなく、女性としてのアイデンティティーを持った人を受け入れる方向に進む可能性がある」(仙台白百合女子大 学)

 などなど、自校大学の理念に基づいて前向きな姿勢を示す大学がある一方で、次のように難色を示す大学もあります。

・「国公立大と比べて財政基盤の弱い地方私学の女子大では、ダイバーシティーへの対応より安全管理上の課題等を優先せざるを得ない」(活水 女子大学)
(以上、参考記事より引用)                               

 全体で見ると、大学の入試制度を超えた社会支援という観点からLGBTなど性的少数者の理解と認知を進める教育を行っていくことが重要だ、という意見が多数派のようです。

 さて、ここからは私の個人的な意見です。

 長々と書き連ねておきながら、大学側の見解も、この記事の要旨も、的を射ているようで的外れだな、と感じてしまいました。

 そもそもこの問題を考えると、なぜ女子大があるのか、というところに行きつきます。女子大ができた当時の時代背景として、その後の男女の生き方に今よりもはっきりとした違いがあったことが指摘できます。それに即した教育が必要だったというのが大まかなところでしょう。
 しかし、現代においてはもうその理屈は通りません。制度上の問題について難色を示している大学には、それは言い訳ではないか、という印象をどうしても持ってしまいます。

 そして記事に関しても。

 まず、なぜ大学当局にこのようなことを訊いたのか、というのが私が最初に持った感想です。大学側にしてみたら、教育理念に基づいて個人のアイデンティティーを尊重する、という回答がベストアンサーにならざるを得ないのではないでしょうか。その理念の先にあるのは、学生が置かれた環境を大学側が教育という観点からどうするか、という手段のみです。

 本当に明らかにしなければならないのは、受け入れる大学に在籍する学生の意見。私はそう思います。
 大学側が制度を変えたとしても、性的少数者と呼ばれる人々が相手にするのは大学ではなく学生です。大学側のできることは、繰り返しますが、教育という視点からのアプローチまで。個性として認知を促し、身近にいるということを学内に浸透させることしかありません。

 そして、認知や理解を広めたうえでその個性を認められないという意見があるのであれば、それはあくまでも個性の相違。性的少数者であることをアイデンティティーとしてとらえるなら、個性を認められない、という結論も互いに理解することが肝要ではないでしょうか。

参考記事:

1日付 朝日新聞朝刊 13版 25面(教育) 「「多様な女子」受け入れ課題は」