「すずめの戸締まり」が私に思い出させてくれたこと

皆さんは、新海誠監督の最新作「すずめの戸締まり」を見ましたか? 私は映画館で見て、涙が止まりませんでした。

東日本大震災を題材にした作品です。映画を見終わったとき、何も言葉を発したくありませんでした。自分の気持ちに名前をつけたくありませんでした。なぜなら、常日頃から抱く「地震への恐怖」を、映画の中にいやというほど見たからです。

2011年3月11日、当時小学生の私は揺れさえも体験しませんでした。東海地方にいただけでなく、地震が起こった瞬間はインフルエンザでベッドに臥せていたからです。でも、幼いころから親や先生にはこう教えられてきました。「100年に一度の大地震が、いつか必ずやってくる」「自分の命は自分で守れ」

そしていま、私は毎晩床につくたびにこわくなるのです。眠っている間に地震がくるかもしれない。明日死んでもおかしくない。それなのに大した対策もしませんでした。今日はまだ大丈夫だろうと油断する自分もいたからです。

予備知識のないまま「すずめの戸締まり」を見て、美しい映像や音楽に魅せられるのと同時に、自分自身の「こわい」という気持ちが鮮やかによみがえりました。陳腐な感想になど絶対にしたくない、強烈な体験でした。

18日付の読売新聞には、能登半島で地震が活発化しているとの記事がありました。防災も含めると、新聞には地震についての記事が毎日のように載っています。それでも、文字からは痛みを感じることはできません。私たち、特に震災を体で体験しなかった私は、やがて忘れてゆきます。「天災は忘れた頃にやってくる」ということを。

NHKのインタビュー記事によれば、新海監督は震災当時「アニメを作るのが後ろめたかった」そうです。しかし、新型コロナや戦争といった、一人の力ではどうしようもない状況におかれるこの時代にこそ、震災を取り上げる意味があるのだと同じ記事にありました。

私は死ぬのがこわいです。南海トラフ地震がいますぐにでも起こるかもしれません。いまだ収まらぬ新型コロナウイルスに、いつ日本でも始まるか分からない戦争。死ぬのがこわい。でも、いま私が正しくこわがるものたちは、決していきなりはやってきません。いつかくることを私たちは知っています。だから、いま準備しなければなりません。誰のせいにもしないために。周りの人々を憎まないために。

最後に、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という大好きな詩の一節を紹介します。

駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄

参考記事:

18日付 読売新聞朝刊(14版)26面「能登 地震頻発エリア拡大」