由来は北朝鮮帰還事業 新潟の「ボトナム通り」

「関心を持つ人が減り、廃れてしまうのを待っているようだ」。新潟市中心部から新潟港まで続く道路は、ボトナム通りの呼称でも知られています。ボトナムとは朝鮮語で柳のこと。今から63年前、朝鮮人帰還事業を記念して306本の柳がこの道に植えられました。しかし、今は新潟県民でさえ、ボトナム通りの由来を知る人は少なくなっています。帰還事業で北朝鮮に渡り、後に脱北した川崎栄子さんに当時の様子を伺いました。

1959年12月14日、新潟港から北朝鮮へ行く万景峰号の第1船が出航しました。戦後、日本にいる朝鮮出身者約9万3千人が「地上の楽園」と喧伝され、北朝鮮に渡った事業の始まりです。あわせて6千人を超える日本国籍を持つ人も渡り、中には日本人妻も含まれたといいます。日本国内では帰還事業、北朝鮮では帰国事業と呼ばれており、北送事業ともいいます。

 

新潟港近くにある朝鮮総連の建物。帰還事業が行われていた時は「北朝鮮に送る段ボールが窓から見えた」という(12月13日、筆者撮影)

 

新潟県中央区の新潟港中央埠頭で14日、帰還事業による犠牲者を追悼する式典が開かれました。主催者の1人である在日コリアン2世の川崎栄子さんも、60年代に北朝鮮に渡った経験があります。「朝鮮総連の高校で税金がかからない国だと宣伝された。病院も学校も全て無料。そう言われて、どんな国か住んでみないとわからないと思い好奇心で行こうと思ったの」と、高校3年生の当時に1人で渡航した理由を話してくれました。

しかし、実際に渡った先は「地上の地獄」だったと言います。日本から来た人は、北朝鮮では民主主義思想を持っているとされ、厳しい監視の下で生活をしなければなりませんでした。「北朝鮮国内では差別され、一切の公職に就くことができなかった」と川崎さんは振り返ります。一番怖いと感じたのは言葉。「日本の歌を歌っただけで、3か月間も取り調べを受けた人がいた。強制収容所に入れられてしまうこともある」とも話してくれました。

 

万景峰号の第1船が出航した地で献花を行う川崎さん(12月14日、筆者撮影)

 

式典では、北朝鮮で厳しい生活を強いられた末、亡くなった犠牲者を追悼する黙祷や献花が行われました。2003年に脱北した川崎さんは1年半中国に滞在し、04年に日本に帰国。「孫を連れてこられなかったのは一生の不覚だった」と涙ながらに話しました。家族に「国境近くの場所に仕事がないかどうか見てくる」と言い残して家を出たそうです。日本人妻として渡った人たちには「3年後に里帰りができる」と言われていましたが、実際に帰ることが許されなかった人も数多くいます。彼女たちは自由な往来を制限され、渡航前に新潟で植樹した「ボトナム通り」の柳を二度と見ることはできませんでした。

 

「この悲惨な北送事業を、形あるものとして残す必要がある」と川崎さん。植えられた柳は80本ほどに減ってしまいました。現在は新ボトナム会という団体が、北朝鮮帰還事業を後世に伝える活動の1つとして、柳を植え直す作業を計画しています。

 

新潟港中央埠頭に入る交差点には「朝鮮民主主義人民共和国帰国記念植樹」と書かれた記念碑がある(12月13日、筆者撮影)

 

参考記事:

15日付 朝日新聞朝刊(新潟13版)25面 「『涙止まらない』脱北者ら犠牲者悼む」

15日付 新潟日報朝刊 29面 「日本人妻らの冥福祈る」

 

参考資料:

林典子(2019)『フォト・ドキュメンタリー 朝鮮に渡った「日本人妻」』岩波新書