福岡→宮崎 自転車走破の旅は「やってみよう」の歌詞そのものだった

私は一人で福岡県の博多から宮崎県の延岡まで自転車で行くチャレンジをしていて、今日は最終日。今は大分県の南端佐伯市でペダルを漕いでいる。

刻一刻と「その時」は近づく。ついに、「またのおこしを 大分県」の看板が視界に入った。走り続けてきた大分を離れることが急に切なくなった。でも、旅のゴール・宮崎に突入する喜びには勝てなかった。

200mほど行くと、今度は宮崎県入りを知らせる標識が見えてくる。丸ゴシックの三文字「宮崎県」を私は15秒ほど見つめた。ついに来たんだと思った。まずは自転車を手で押しながら県境を越える。次にいったん大分側まで戻って、今度はスマホで動画撮影しながら越境した。この瞬間を克明に刻みたかった。

△大分県と宮崎県の県境付近の国道10号線(12日07時47分、筆者撮影)

九重の峠越えは想像以上にしんどかった。福岡から宮崎まで最短ルートで行く場合、大分県中部の九重連山を避けては通れない。サイクリストの間では「獲得標高」という言葉がよく使われる。これは自転車でどれだけ上ったかを表す数値で、たとえ下り坂を走ってもマイナスされない。大分県日田市から竹田市まで移動した日の獲得標高は1300mを超え、自転車のチェーンは終始うなりをたてた。私は走行中も景色を楽しみたかったので、前傾姿勢のロードバイクを嫌い、いわゆる「ママチャリ」でこれに挑んだ。体力の消耗は激しかったが、「絶対宮崎まで行ったる」と自分を鼓舞した。宮崎を目的地にしたのは、最近ご無沙汰だったのと、大好きなチキン南蛮発祥の地だからというだけだったが、九重連山を越え、ただのチキン南蛮の県ではなくなった。

△九重高原展望台から南西方向を眺めた。「自分の脚でこの景色をつかみにきた」という感覚。達成感は尋常ではなかった(10日16時20分、筆者撮影)

久しぶりの一人旅である。大学2年生まではしょっちゅう一人で行っていたが、自分の喜びのためだけに時間を使うのが虚しくなってやめるようになった。代わって人との旅行が増えた。中学1年生の時から長期休暇の度に一人で全国を飛び回っていた筆者にとって、それは大転換だった。ちなみにこれは私だけではない。所属している鉄道好きが集まるサークルでも、年次が低い部員ほど一人旅の割合が高いように思う。

一人旅には一人旅にしかないよさがあると今回の旅で思った。私は相手の顔色を過剰にうかがう癖があると言われることが多く、「相手が嬉しそうだから安心(もしくは自分も嬉しい)」という心理にたまに陥る。もちろん、悪いことではないのかもしれないけれど、自分の感情がよく分からないのは不安が大きい。実際、この夏くらいからなんか煮え切らない思いがずっとあった。一人旅は主なアクターが自分だけだから、気持ちに真正面から向き合える。「俺は今、めっちゃ楽しい」が自分ではっきり分かっている実感は、他に代えがたい幸福だった。

 

旅行中、私はその地域出身のアーティストの曲を聞くことが多い。今見えている景色と歌詞とが何となくリンクしているように感じられるからだ。熊本県北東部の小国町を走行中、熊本出身の歌手WANIMAさんの「やってみよう」が頭に浮かんだ。auのCMの曲としておなじみで、高校の書道部にいた頃はパフォーマンスのBGMとしても使った。聴き慣れた曲ではあるが、改めて歌詞を振り返ってみると今の私にとても響いた。歌はこんなフレーズで始まる。

「正しいより楽しい 正しいより面白い やりたかったことやってみよう 失敗も思い出」(作詞:篠原誠)

なぜ、作詞者は「正しい」と比較したのだろう。

世間で推奨されること、例えば、旅行中、資料館や遺跡を訪れたり、現地の人と話をしたりといったことは、自分の教養を深め、見識を広めてくれる。私もこれらは重要だと思うし、これからも続けていきたい。また、誰かを笑顔にしたり、逆に自分が笑顔にさせられたりといった経験もかけがえのない、とても素敵なことだと思う。ここ最近でも忘れたくない思い出はたくさんある。

でも、本当のところ自分は何がしたいのか。社会や自分以外の人の期待から一旦距離を置き、自己の内面に向き合う時間を作ることも並行して必要だ。そう私に訴えかけているような気がした。自分一人の時間でしか得られない感情も世の中にはあるのだと思う。