デジタル化で変わる「書く」文化

「最後に鉛筆握ったのいつだっけ?」

デジタル化が急速に進む未来、こんな会話が聞こえてくる日もそう遠くはないのかもしれません。

小学校に入学したての頃から鉛筆の持ち方を入念に教わり、重要な試験は全て筆記。紙と鉛筆とともに成長してきた筆者からすると、最近の急速な電子化には少し戸惑いがあります。

今までの筆記試験といえば、まっ白な論文用紙に制限時間の中、ひたすら文字を埋めていく作業でした。その途中で少しでも詰まったら大焦りですし、隣の人が急いで消しゴムで消そうとしている音を聞きながら、黙々と文字を連ねる。一度書き始めたら止まれない。それが作文の怖さであり、醍醐味でした。後半まで書き進んだあとに限って、違う書き出しのほうが魅力的なのではないかと思えてきたり、途中で気に入らない部分が出てきたり。

それでもなかなか直せないじれったさは、学生なら一度は経験したことがあるのではないでしょうか。文字数という決められた枠の中にいかに収めながら書ききれるか、つまり事前にアウトラインをうまく練られるかどうかが勝敗の分かれ目でした。しかし今やそんな張り詰めた空気の中で行う試験方式も一気に変わる可能性があります。

TOEICやIELTSなどといった英語技能試験では、紙方式と同時並行でコンピュータによる受験方式が導入されるようになりました。スピーキング、リスニング、リーディング、ライティングの4技能がある中で、コンピュータの導入によってその性格が特に大きく変わったのがライティングです。途中で段落の順序を入れ替えることや内容の細かい部分を変更することが可能になり、一気に推敲がしやすくなりました。「よーいドン」の合図でひたすらに突っ走るのではなく、一度立ち止まって考えることや寄り道をすることができるようになったのです。

コンピュータ方式は採点者にとっても利点があります。受験者それぞれの読みにくい字を一文字ずつ解読していくのには時間と手間がかかりますし、間違いが起こるリスクもあります。デジタルであれば、一律のフォントなので誤解を呼ぶ可能性がなくなり、採点がしやすくなるのです。

効率化の観点でいえば、デジタルは非常に便利に感じられますが、もちろん手書きならではの良さもあります。例えば手紙や日記を書くとき。手書きには人の魂が宿っているような感覚があります。それぞれの字体の癖や特徴、筆圧の違いがその人自身の志向や性格を表しているようで、文字からは人間らしい温かさが伝わってきます。また人によってはパソコンで打つのが苦手だから筆記の方がありがたいという人もいるでしょう。

もしすべてがタイピングで処理されるようになったらどうなるでしょうか。国語の時間に字を綺麗に書くことや漢字の書き順を習う必要はなくなり、代わりにタブレットを使ってローマ字やタイピングのスピードを上げる方法を教わるようになるでしょう。「あ」の書き順や書き方を習う必要はなく、「a」で表されることだけ知っていればよいのです。漢字はひらがなで「かんじ」とさえ打てばすぐに変換してくれるので、「薔薇」や「鬱」などの複雑な漢字を覚えることもなくなり、「読めるけど書けない」が「読めるし書く必要もない」という状態になります。デジタル化が進めば進むほど、言葉という概念自体も変わってくるのではないでしょうか。これを日本語の進化と捉えるか風化と捉えるか。時代の変化に伴って、鉛筆の持ち方を習う子供が消えてしまう可能性もゼロとはいえないのです。

参考記事:

1日付 朝日新聞デジタル「「1人1台」端末で広がるデジタル教科書 現場では 今後どうなる」