全国の体育の先生へ 球技音痴より

私は、球技がすごく苦手です。とても下手くそなのです。

まず、ボールを自分の思い通りの場所に投げることができませんでした。それに、二つ以上のことを同時に処理したり、あちこちを満遍なく見たりすることが苦手です。そんないっぱいいっぱいな私にとって、「ボールの位置を確認しながら相手の動きを見てポジション取りする」なんて高度なことは、至難の業です。小学校の頃から、体育だけはどんなに一生懸命にやっても良い成績が取れませんでした。球技大会では「そんなに外すならシュート打たないで」とチームメイトを苛立たせてしまう始末です。

一回は運動部での青春とやらをしてみたい、と高校でハンドボール部に入りましたが、結局今も「得意なスポーツ」だとはとても言えません。部活で得た仲間はかけがえのないものではありますが、こんなにも向いていなかったのなら、早めに辞めても良かったかなと思うことすらありました。それほど、球技には苦い思い出が詰まっています。

それだけに、「ドッジボールは恐怖の時間」と題した今朝の朝日新聞の投稿には目が留まりました。オピニオン面、17歳の高校生の言葉です。ボールが迫ってくるのを見ると体がゾッとする、だからドッジボールが大嫌いなこと、体育の余った時間や他クラスとの交流の時間にいつも憂鬱な気分になることなどがつづられており、「チームのために活躍できずごめんなさい」と謝罪の一言で締められていました。この投稿は、ドッジボールという競技自体への異議申し立てでもあるのでしょうが、文中のこんな表現に注目がいきました。

運動部の人はすごいスピードでボールを投げ、何人も当てて活躍している。私も「そっち側」の人間になれたらなと何度も思った。

「球技音痴」界ではきっと共感の嵐でしょう。ドッジボールに恐怖を感じなければ、もっと体育の時間を楽しめるかもしれないのに。もっと思い通りに身体が動いたら。私にセンスがあったら。私も思ったことがあります。

 

しかし大学に入ってから、必ずしも「センス」だけが問題ではないと思わされることがありました。大学にしては珍しい、厳しい先生のもとバレーボールの授業での出来事でした。サーブが相手コートに入るかどうかは神のみぞ知る、「運ゲー」状態だった私に、「いったんボールなしで手を振り下ろしてみて」と先生。サーブの基本中の基本の動作を細かく分解して、1ステップずつ教えてくれました。細かく原理を理解すると、自分の力が思い通りにボールへ伝わるように。20年間で初めて味わった感覚に、感激しました。できるようになるってこんなにも面白いんだ。体育の時間が楽しみになりました。

「落ち着いてボールをよく見れば絶対に返せるから」。試合中にも先生からの声が聞こえます。彼は、一人一人の動き方を細やかに観察してアドバイスをくれました。

この出来事を、大学で体育学を勉強している友人に話しました。彼女は運動神経抜群で、私からすれば「センスの塊」ですが、意外にも「結局どれだけ良い指導者に教えてもらえたかなんだよね」と共感の声が返って来ました。彼女も、良い指導に巡り合えた経験があったようです。

スポーツ選手として優秀でも、指導者として優れているとは限りません。確かに思い返せば、高校の時の体育の先生も、学生時代アスリートとして華々しい成績をあげていたという話は聞いていましたが、細やかに助言してくれたことはありませんでした。運動音痴の私がアスリートのことを理解できないように、見様見真似でもこなせてしまう人は、できない人のことを理解しにくいのかもしれません。

彼女は大学では「体育をどう教えるか」を学ぶ授業もあるんだけどね、と教えてくれました。だったら、上手な人の力を伸ばすだけでなく、苦手意識を持っている人にも寄り添って、スポーツの面白さを伝えてくれる先生も増えたらいいのになと思います。スポーツにポジティブなイメージを抱く人が増えれば、生涯健康な人が増えることにも繋がるのではないでしょうか。

ドッジボール嫌いの投稿主も、もしかすると投げ方の原理を理解したり、ボールを最後まで見てキャッチするコツを細やかに教えてもらったりすれば、好きになれるかもしれません。苦手な人に合わせて、柔らかいボールにするなどルールを変えてみる提案がされても良いでしょう。苦痛な時間が楽しみな時間に変わることを願っています。

 

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21日付 朝日新聞朝刊(愛知13版)9面(オピニオン)「ドッジボールは恐怖の時間」