源氏物語といえば、光源氏を中心に繰り広げられる恋模様を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。筆者も、これまで源氏物語について詳しく知っていたわけではない。高校の古典の授業で一場面を学び、漫画の『あさきゆめみし』を読んだ経験がある程度だ。そのため、光源氏をめぐる華やかな物語という印象が強く、終盤がどのように描かれているのかまでは知らなかった。
先日、用事で京都を訪れた機会に、宇治市の源氏物語ミュージアムへ足を運んだ。そこで初めて、源氏物語の最後の十帖が宇治を主な舞台としていることを知った。
宇治橋と宇治十帖モニュメント(2026年9月18日 筆者撮影)
源氏物語は全54帖からなり、そのうち第45帖の橋姫から第54帖の夢浮橋までが宇治十帖である。光源氏の物語が終わった後の世代を描き、薫や匂宮、その間で揺れ動く浮舟らの恋愛が展開する。前半の華やかさとは対照的に恋に悩み、孤独を抱える人物たちの姿が描かれ、静けさと寂しさが漂っている。
源氏物語ミュージアムでは、常設展示の宇治の間で、音声や照明を使って宇治十帖のあらすじを紹介している。なかでも印象に残ったのが、浮舟をめぐる物語である。
浮舟は薫と匂宮という二人の男性から思いを寄せられ、その間で苦悩する。その後、出家した浮舟のもとには、最後の「夢浮橋」で薫から手紙が届く。しかし、浮舟は会うことも返事をすることもない。そこで物語は終わる。すべての謎が解け、登場人物のその後が示される結末ではない。浮舟が何を思っているのか、薫の思いはどうなるのか。読み手の想像に委ねられる余白を残したまま、54帖の長編は幕を閉じる。
館内には、平安時代の「垣間見」を実際に体験できる展示があった。暗い場所から、御簾や几帳などで仕切られた明るい部屋をのぞく。こちらからは中にいる人の姿がよく見える一方、明るい部屋にいる側からは、暗がりにいるこちらの姿が見えにくい。実際にのぞいてみると、古文で読んでいた垣間見の仕組みがよく理解できる。相手には気づかれないまま姿を見ることに、どこか後ろめたさを覚えた。
現代なら、他者の写真をSNSで見ることは珍しくない。本人が発信していれば、どこへ行ったのか、何を着ているのかまで知ることができる。連絡もスマートフォンからすぐに取れる。しかし、平安時代には、相手について得られる情報は限られていた。たまたま名に映った姿やわずかな手がかりから相手を想像することになる。
平安時代では、ほんの一瞬見えた姿が恋のきっかけになる。源氏物語で描かれる垣間見は、限られた情報から相手を想像する。顔を知らないまま、声や衣服、香り、和歌などから人物を思い描く。今のように情報があふれている時代からすると、恋愛に必要な情報があまりにも少ない。
直接会うことが難しいからこそ、和歌や手紙も大きな役割を果たした。想いを限られた言葉に託して送り、返事を待つ。届いた一首の意味を考え、その言葉の裏にある相手の気持ちを想像する。現代のように既読がついたかどうかを気にするどころか、返事がいつ届くのかも分からない。
見えないからこそ見たい。会えないからこそ、届いた言葉を反芻する。そうした「知りたい」という気持ちは、平安時代の恋愛を表す「ゆかし」という言葉に重なる。垣間見も和歌も、相手をすべて知ることができないからこそ、想像する余地を残していたのかもしれない。
そして、その余韻を残したままミュージアムを出て、宇治の街を歩いた。宇治川を渡り、宇治橋を歩き、大吉山にも登った。
大吉山の展望台からは、宇治川を挟んで平等院鳳凰堂や宇治の市街地を見渡すことができる。館内で宇治十帖を知った後に眺めると、先ほどまで展示で見ていた光景が、実際の山や川として目の前に広がっている。自分が宇治の舞台に立っていることを、ここで改めて実感した。
大吉山の展望台から見渡す宇治(2026年9月18日 筆者撮影)
京都を訪れる機会があれば、中心部から少し足を延ばして、宇治十帖の舞台を歩いてみてはいかがだろうか。何も知らずに見る宇治と、物語を知ってから見る宇治。同じ風景でも、そこから受け取るものは大きく違う。心理学でいうスキーマ、これまでの経験や知識をもとに物事を理解するための枠組みを一つ得ることで、旅先で目に留まるものが増える。そのようなことを実感した宇治歩きだった。
参考記事:
2026年9月25日付 朝日新聞デジタル 「眺める源氏物語、京都・宇治のミュージアムで 屛風や絵画、着物など」
https://digital.asahi.com/articles/ASV9S3TBNV9SPLZB013M.html?iref=pc_ss_date_article
参考資料:
宇治市公式ホームページ 「宇治市源氏物語ミュージアム The Tale Of Genji Museum, UJI CITY」
https://www.city.uji.kyoto.jp/site/genji/index.html
(最終閲覧はすべて2026年9月25日)
