11月となり、ようやく秋らしくなってきました。例年10月31日は、渋谷でのハロウィンがニュースに取り上げられ、議論を呼び起こしてきました。皆が思い思いの仮装をして、街を練り歩くという、本場の伝統とは異なる形で定着してきました。過去の記事をみてみると2022年、韓国・梨泰院でハロウィンのために集まった多くの若者が死傷したことを報じていました。
近隣飲食店への迷惑行為やごみ・騒音などさまざまな問題を抱えるこのハロウィンですが、見方を変えて「自分らしさ」を表現する場と捉えると興味深いものが見えてくるのではないでしょうか。
日本の社会は、「皆が同じ」であることが良いとする傾向があるように思います。校則や制度があり、それを守っていれば同じようになるのは仕方がないのかもしれません。ですが、ハロウィンでは「自分の好き」を目いっぱいに表現できるのです。
これまでの行動の中では、どれだけのことを自分の意思で選択してきたでしょうか。きっと「親が言うから」「一番普通の方法だったから」といった理由からの判断は多かったと思います。いわゆる「社会規範」に従ったというわけです。わかりやすいものなら「男らしさ」や「女らしさ」といったジェンダー規範が挙げられ、それは社会が求められる理想の形と言い換えることもできます。
筆者は今回この社会規範の成立と関連した「ルッキズム」について考えていこうと思います。
皆さんは日本語で「外見至上主義」と訳されるルッキズムをご存じでしょうか。その始まりは、1970年代初頭にアメリカで起こった肥満差別に対する抗議運動「ファット・アクセプタンス運動」であると言われます。その後、外見のみを重視して人を判断したり、差別的な扱いをしたりすることを指すようになりました。ルッキズムを扱った本では、「社会が決めた画一的な美を押し付けること」と定義していました。
ここから分かるように、ルッキズムの根底には先に挙げた「こうあるべき」といった思い込みが影響しています。この規範は、広告での「見惚れる艶肌」といった表現、「絶対失敗しない新学期コーデ」などの雑誌タイトルをはじめ、メディアを通じて人々に浸透し、それに沿った行動を繰り返すことで価値基準が画一化されてきました。「派手=チャラい」「地味=真面目そう」といったイメージもこれに含まれます。
そういわれると、自分も「あの人めっちゃ派手だから怖そう」と思い込んだことがあるな、とハッとした方もいるのではないでしょうか。ルッキズムは、その時々によって自分が加害者にも被害者にもなるという両面性をはらんでいます。
じゃどうすればよいのか、頭を抱えたくなります。本来自分の好きや理想があることは良いことであり、多様性を支えるものでしょう。ならば大切になってくるのは、「想像力」ではないでしょうか。親しき中にも礼儀ありと言いますが、いくら仲が良いからと言って、「お前ちび」などといじっていいわけではない。もしかしたら、自分の言葉は相手を傷つけているかもしれない。そういった自分以外はどう思うかをちょっと考えてみる。その姿勢が大切になってくるのだと思います。
情報社会は、我々に新たな世界をいくつも見せています。ですが、メディアが身近になったことで社会の規範は強化され、ルッキズムが加速することにつながりました。そうした中でSNSという双方向性のメディアは、これまでマスメディアだけが決めていた価値の基準を揺さぶる可能性を秘めています。
「それもルッキズムになるんだ」と気づいた時、それがなぜ起こり、その原因はどこにあるのかを探ってみると非常に興味深いものがあります。社会が作り出す画一化された価値基準に従うのではなく、課題はありますが、ハロウィンの時のように「自分がしたいから」と「自分基準」で選択してみると社会の見方は異なるものになるのかもしれません。
参考記事
2022年公開 読売新聞オンライン
「渋谷ハロウィーン、外国でも「すごく有名」「世界にない」…日本の警備「万全だと信じている」」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20221101-OYT1T50135/
参考資料
協和キリン 【解説記事】「ルッキズム」とは
https://www.kyowakirin.co.jp/stories/20230529-03/index.html
『つまり、それがルッキズム【23の事例と解説】』 前川裕奈・ウィルソン麻菜