【第3回】歩いてしろう、丸亀・松山城の城違い

丸亀城と松山城の違いは何を意味するのか

同じ四国の城でありながら、丸亀城と松山城はどこが違うのか。第1回では四国最小の丸亀城を、第2回では四国最大の松山城を歩き、道のり、石垣、天守、そして築かれた歴史を、同じ観点から記録してきた。最終回となる今回は、3つの城で見たことを踏まえ、その差が何を意味するのかを考えたい。

比べる前に、一つ確認しておきたいことがある。2つの城を歩いた条件が同じではなかったことだ。丸亀城は正面の大手門から、曇天の下で登った。一方の松山城は、裏口にあたる搦手の古町口から、朝方まで降った雨の後の霧とぬかるみの中を登った。登りやすさの差を、城の造りだけで説明することはできない。

そのうえで、筆者が強く感じたのは、「見せ方」と「登る体験」の違いだった。

 

どう登らせる城だったか

丸亀城は、大手門から天守まで歩いて15分ほど。短い道のりだが、見返り坂の急な勾配には息が切れた。松山城は、古町口から天守まで40分ほどかかった。長い道のりの途中で、いくつもの門をくぐることになる。松山城の公式サイトの案内でも、正規ルートの黒門口登城道から本丸広場までは約25分とされ、丸亀城よりも長い。

丸亀城 登城前(2026年9月10日 友人撮影)

古町口登城道から登り、乾門が見えた様子(2026年9月11日筆者撮影)

短く急な坂で一気に足を止めさせる丸亀城と、長い道に門を重ねて少しずつ進ませる松山城。同じ「登る」でも、体に残る感覚は全く異なった。

 

石垣は何を見せていたか

丸亀城の石垣は、高さで迫ってくる。三の丸北側の石垣は最大約31mあり、20メートル以上の城壁が続く。近づくほどに見上げる角度がきつくなり、その迫力に圧倒された。 松山城の石垣は、高さでは丸亀城に及ばない。本丸石垣の最も高い南端でも17メートルだ。しかし、石垣は山全体に連なり、登り石垣は南側だけで総延長230メートルにおよぶ。

丸亀城の石垣(2026年9月10日 友人撮影)

登り石垣(2026年9月11日筆者撮影)(以下筆者撮影)

高さで見上げさせる丸亀城と、広がりで山を包み込む松山城。同じ石垣でも、見る者に与える印象はまったく異なっていた。

 

天守はどう守っていたか

丸亀城の天守は、東西11メートル、南北9メートルと小さい。しかし、城下からは大きく見えるよう東西に広く造られ、内部には石落としや狭間が備えられている。小さな天守に、見せ方と守りを凝縮した造りだ。

丸亀城 本丸及び天守

本丸広場から見た松山城天守

松山城は、連立式の天守である。天守と小天守、櫓を渡櫓でつなぎ、その間に門と中庭を重ねている。天守そのものというより、天守へ至る道筋全体を守りにしているのが特徴だ。

 

どのような歴史だったのか

丸亀城は1602年(慶長7年)に築城され、一国一城令による廃城と山崎氏による再築を経て、1660年(万治3年)に天守が完成した。松山城は1627年(寛永4年)に築城され、現在の天守は1854年(安政元年)に再建されたものだ。

歩んだ歴史は異なるが、どちらも敵を防ぐ拠点であると同時に、藩を治める政治の中心だった。

 

ここまでの比較を、表にまとめる。

比較 丸亀城 松山城
道のり 大手門から約15分、短くて急 古町口から約40分、長くて門が多い
石垣

高さ最大約31m(三の丸北側)、

総高約60m

高さ最大約17m(高石垣)、

総延長230m(南側の登り石垣)

天守 小さな天守に守りと魅せ方を優先 連立式で道そのものを守りにする
歴史

1602年築城、

1660年に天守完成

1627年築城、

1854年天守再建

 

比べて何が見えたか

2つの城を比べて見えてきたのは、違いが単なる規模の大小ではなく、地形と立地に合わせた設計の違いだということだった。

第1回(丸亀城編)の冒頭で、「天守が小さく、内堀が水をたたえた丸亀城の姿に、どこか奇妙なバランスを感じた」と書いた。今振り返ると、あの不思議な印象こそが、丸亀城の設計の妙だと思う。丸亀城は、小さい丘という限られた空間と水をたたえた内堀という条件のなかで、高い石垣と小さな天守によって、小さいながらもそれなりの威厳を示していた。

一方の松山城は、松山平野の中央にある勝山を、山ごと城に作り替えている。門、石垣、櫓を幾重にも重ね、過剰なほど守りの機能を高めていた。

見せ方も対照的だった。丸亀城は、高い石垣と小さい天守で城全体は小さいながらも標高が高いため、市街から「見上げる」のに適した城だ。松山城は、山頂という高さと連立式の連なりで城全体が大きいため遠くを眺めやすく、天守から市街を「見わたす」のに適した城だった。

登る体験の違いも、この守りの置き方と重なっている。丸亀城は短く急な坂で、松山城は長い道に門を重ねて少しずつ、攻め手の勢い、つまり足を止めようとしていたのではないか。

規模が大きいから守りが厚い、というわけではない。守りと見せ方を、どのように、どのくらい重視するのか。その設計の違いこそが、同じ現存12天守で、一方が四国最小、もう一方が最大と対照的でありながら、ともに四国で名を馳せた城になったのだと考える。

 

他の城にも当てはまるのか(予想)

ここまでは、2つの城を実際に歩いて得た考察だ。ほかの城にも当てはまるのかどうかは、まだ自分の足で確かめられていない。そこで、あくまで推察として考えてみたい。

地形と立地が城の姿を決めるのであれば、同じ現存12天守でも、城ごとに守りの置き方や見せ方は違うはずだ。現存の天守のうち、四国には丸亀城と松山城のほかに、宇和島城と高知城がある。同じ四国の4城でも、それぞれの土地に応じた姿をしているかもしれない。

また、守りを重視する設計は、規模の大きな城に目立つのではないかとも考える。現存12天守のうち松山城と同じ連立式なのは姫路城で、登り石垣の存在が確認されているのは松山城と彦根城だけだ。2つの城だけで言い切ることはできないが、守りを重ねる工夫が大きな城に共通するのかどうか。ほかの城を実際に歩いて確かめてみたい。

反対に、小さな城は、丸亀城のように限られた空間での守りと見せ方を両立しているのではないか。それが丸亀城だけの特徴なのか、小さな城に共通するものなのかを解き明かすことは、筆者のこれからの課題である。

 

まとめ:違いの先にあるもの

丸亀城と松山城を実際に歩き比べて分かったのは、2つの城の違いが単なる大きさの差だけではなく、地形と立地に合わせた、守りと見せ方についての設計思想からして大きく異なっていたことだ。丸亀城は、見上げるほどの高石垣とコンパクトな天守に守りと威厳を凝縮していた。松山城は、道と門、石垣と櫓を幾重にも重ね、山の上から市街を見下ろしていた。

それぞれの土地で、城が守りと威厳を成り立たせるために出したそれぞれの最適解だったのだと思う。この考えは、ほかの城でも成り立つのだろうか。

日本100名城をめぐる旅はまだ続けていきたい。次に歩くときは、地形と立地を事前に調べ、そして複数の登城ルートから登って城の特性を正確に掴みたい。

 

四国取材の後に訪れたMazda Zoom-Zoom スタジアム広島

 

参考記事:

・2026年8月28日付 朝日新聞(夕刊)(大阪) 6面 「歴史の新視点、とらえた 全日本お城写真コンテスト2026」

・2025年12月30日付 読売新聞(朝刊)(大阪) 23面 「新年前に 登城道を清掃 松山 新田高の生徒ら=愛媛」

・2025年6月20日付 読売新聞(朝刊)(大阪) 27面 「国文化財 人命リスク 斜面1200か所 災害時損壊 城跡など補強支援へ」

・2025年2月2日付 日経電子版 「城でにぎわい創出 松山はVR合戦、岡山は地図で回遊」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC177DZ0X10C25A2000000/

参考資料:

・丸亀市公式ホームページ 丸亀城 マップ・スポット紹介 https://www.city.marugame.lg.jp/site/castle/2897.html#link8

・丸亀市公式ホームページ 丸亀城 丸亀城の歴史 https://www.city.marugame.lg.jp/site/castle/2930.html

・松山城公式サイト 松山城の紹介

https://www.matsuyamajo.jp/guide/matsuyamacastle.html

・松山城公式サイト 歴史と人物

https://www.matsuyamajo.jp/discover/history.html

(最終閲覧はすべて2026年10月31日)