昭和の終わり、平成の終わり

夜中までベットを出ず、ずーっとテレビを見ていた。いや、見ているよりも、昭和の時代のあれこれをいろいろ思い出していた

作家吉行淳之介の「昭和最後の日」、「平成最初の日」の過ごし方である。吉行に限らず、1989年1月7日は、多くの者に走馬灯の如く昭和を追憶させる日となった。中高年以上の戦中・戦前世代は、昭和天皇の崩御により、決して忘れることのできない先の大戦と向き合う1日となった。

つまり、新たな時代の始まりではなく、「昭和の総括」の意味合いが強かったのである。街からはネオンサインや電飾が消え、民放はCMをはずし、一斉に「天皇特別番組」を放送するなど、内省的にならざるをえない環境が出来上がっていた。

そのような30年前の暗く重い雰囲気とは打って変わり、令和への改元は新しい時代への希望に満ち溢れていた。

4月30日、私は大学の友人と共に東京の渋谷を訪れていた。「改元フィーバー」を渋谷で楽しみたかったからである。生粋の関西人からすると、渋谷といえば、ハロウィンでの狂騒劇を彷彿とさせる享楽的な街のイメージがあった。それ故に、今回もさぞかし羽目を外した騒ぎになるのではないかと思ったミーハーな私たちは上京を決意したのであった。

2330分前、渋谷駅を訪れた私たちは、改元前のなんともいえない焦燥感を肌で感じた。雨にもかかわらず、ハチ公前を埋め尽くす若者たち、混雑の整理にあたる警察庁の警備隊、電飾を付けたおじさん、菅義偉官房長官――。渋谷はまさに「カオス」であった。それが臨界点に達したのが、2355分であった。

 

▲渋谷のスクランブル交差点で立ち往生する菅官房長官。1日、筆者撮影。

 

 「平成!平成!平成!」のコールとともに、若者たちは騒ぎ出し、DJポリスの「立ち止まらないで進んでください」というアナウンスもどこ吹く風。インスタライブや自撮りに夢中で周りのことは全く気にしていない。「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味が新元号の「令和」に込められているそうだが、それとは正反対の光景が渋谷にはあった。

改元10秒前になると、「10、9、8、7」と誰かれとなくカウントダウンを始めた。そして、0時。一瞬間を置いて、「おぉー!」や「令和!令和!令和!」と人々は騒ぎ始めた。私はこの一瞬に、憲政史上初めて、天皇との死別を伴わない改元を迎えた日本人の「戸惑い」を象徴しているかのように感じた。

人々はスクランブル交差点に踊り出た。私もその流れに乗っていったが、身動きが取れないほど密集しており、身の危険さえ感じるほどであった。足元を見ると財布やハンカチ、スマホ、壊れた傘、鉄の柵まで落ちていた。新宿に脱出した私たちは、岩盤浴に避難し、日が明けるまでそこで過ごすことにした。

「平成最後の日」は「昭和最後の日」とは正反対に賑やかで騒然とした1日であった。それが良いか悪いかはさておき、改元を天皇の崩御という「ケガレ」を伴わない、純粋な「ハレ」のイベントとなったのは特筆しておくべきだろう。

もしかすると、明仁上皇が生前退位のご意向を示したのも、改元から「ケガレ」を取り除き、「ハレ」のイベントにしたいという思いが少なからずあったからかもしれない。そうだとすれば、渋谷で馬鹿騒ぎしても許される「平成最後の日」とは、明仁天皇から私たち日本人への最後の贈り物だったのではないか。

渋谷で「ハレ」を満喫した大半は、私と同じ平成生まれであった。その平成世代が、これからの時代をつくっていく。そのことは昭和世代に、一抹の不安を抱かせないこともないが、彼らの不安を裏切れるよう希望に満ちた「令和」時代を築いていく責務が、私たち平成世代にはあるであろう。

それが「平成最後の日」を明るく、そして騒ぐことが許される日にしてくれた、平和を愛する明仁上皇への恩返しになるのではなかろうか。

参考記事

3日付朝日新聞朝刊(神戸14版)22面「改元の放送 テレビは?」

参考文献

吉行淳之介「昭和最後の日」『文藝春秋 特別号 大いなる昭和』株式会社文藝春秋、1989年

首相官邸「新元号の選定について」

https://www.kantei.go.jp/jp/headline/singengou/singengou_sentei.html