大学は「学校」なのか

あれ、そういえば最近、あいつ見ないね。
ああ、辞めたらしいよ。

と、いう会話は、大学に通った経験のある人間ならば誰しもが交わしたことがあるんじゃないかと思います。私も4年間の大学生活の間に、少なくとも5人は大学を辞めるか、辞めたという経歴の持ち主と知り合いました。高校までと違って、大学を辞めるという選択はしやすいものなのかもしれません。当人にとって容易い選択か、というのはさておき。

そう思っていた矢先、本日の朝日新聞の朝刊、教育の面に載った記事に、私は少しばかり驚いてしまいました。

優秀だったはずの長男が、大学を休みがちになり、自殺をしようとしたという東京都の女性の記事。記事の内容自体に驚いたわけではなく、これが「いま親たちは 不登校と向き合う」というシリーズタイトルのコラムとして掲載されていたことに驚きを隠せませんでした。大学に行かないのが登校拒否になるのか、大学ってそもそもそういうところだったっけ。

記事によると、大学に行きたがらなくなった長男はいわゆる「全然手がかからない子」だったといいます。それが進学校へ入り、周囲と自分との差を目の当たりにして自信を失い、それから何かしたいことがあるというわけではなく、大学へは行くものだという考えのもと手の届く範囲の私大へ進学。行かなければ、という気持ちや義務感があったものの、どうしても大学へ行けなくなってしまったといいます。

記事には載っていないので定かではありませんが、いじめや人間関係の不和があったというわけではなさそうで、本人にも大学へ行こうと思えない理由がわからないそう。

さて、話は冒頭に戻りますが、私の周囲で大学を辞めていった面々の事情は様々です。留年が決まって学費を払える見通しが無い、というものが多数派。表面だけくみ取るとそうなりますが、そもそもなぜ留年が決まったのかと言えば、他にやりたいことがあってそちらに熱中した結果、大学へ行っている時間が無かった、という人が多いように思います。

そういう人たちでも辞めるときは多かれ少なかれ大変な思いをしていましたが、一度退路を断った後はそれぞれ活き活きしていました。大学を辞めて生活できなくなっていたり、まして死んでしまった人は、私の周囲には今のところいません。みんななんとか生きてます。それは、各々やりたいことを見つけて、そのために生きているからだと思うのです。

この記事を読んでいる方の中で、今大学生という方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。何がしたくて、その学校を選びましたか。今していることが楽しいですか。大学の勉強以外で、何か興味のあることがありますか。

大学って、何を勉強する学校なんでしょうか。なぜ小学校や中学校のように、「義務」教育とは呼ばれないのでしょう。暇にしようと思えば限りなく時間があり、忙しくしようと思えば全く足りない4年間は、何に使う4年間なのでしょう。志望校だ、受験だと言っていた高校3年生のあのとき、あなたが目指していたものは何ですか。そこに「大学」って本当に必要でしたか。

学力低下が騒がれ、あげく文系学部の存在意義まで問われ始めている昨今。「大学」という機関が何を意図してつくられたものなのか、そして自分にそれが本当に必要か。回答は人それぞれになると思いますが、大学進学が一般的と言われるようになった今だからこそ、もう一度考えてみてほしいのです。

参考記事:
25日付 朝日新聞朝刊(大阪 10版) 17面(教育) 「「おかしいな」大学休みがちに」