被災地で考えた記憶と伝承のこと。

東日本大震災から8度目の盆。被災した各地で慰霊行事が開かれました。

昨日は、津波で200人近い住民が犠牲になった仙台市若林区の荒浜地区で灯籠流しが開催されました。帰省中の私は、たまたま仙台を訪れていたあらたにすのメンバー相澤さんとともに荒浜の会場へ。震災前に800世帯2200人が暮らしていた荒浜地区には今、人は住んでいません。残っているのは震災遺構の旧荒浜小学校と住宅の基礎部分のみ。街灯もない荒浜で夜間に灯籠流しを実施するのは、震災後初めてです。8年ぶりに復活した盆の灯りを伝えようと、テレビや新聞の記者も数多くいました。

▲8年ぶりに復活した夜間の灯籠流し。18日、仙台市若林区の荒浜地区で筆者撮影。

灯籠が流れる堀を眺めていると、ある記者に目が留まりました。全国紙の腕章をつけたその記者は取材を終え、パソコンで原稿を書いているようです。そこは、住宅の基礎の上でした。

目にした瞬間、残念な思いがこみ上げて来ました。今は見えなくとも、そこは誰かの家があったところ。何食わぬ顔で居座る姿勢に疑問を禁じ得ませんでした。

もちろん、記者に悪気は無かったと思います。締め切りが近づく中、都合よく目の前に座れる段差があった、ということでしょう。しかし、それが思慮に欠けた行動と映りました。かつてそこで何があったかを認識していれば、簡単に座り込むことなどしないはずです。何故か。そこは荒浜の人が暮らしていた家だから。

▲荒浜小学校の屋上から。草が生い茂る土地に震災前は住宅街があった。今年5月、筆者撮影。

気難しいこと考えやがって

と言われるかもしれません。でも、座り込む記者を見て違和感を覚えたのは確かです。
ただ、昨日の時点でその違和感を何と言えばいいのか分かりませんでした。
今日の朝刊に、その違和感の答えを見つけた気がします。

昨年9月、沖縄県読谷村の「チビチリガマ」で、「肝試し」といって少年らが立ち入り、千羽鶴や遺品を破壊した事件。チビチリガマは第二次大戦末期に住民83名が集団自決に追い込まれた場所でした。少年達はその歴史を知らずに入ったそうです。そこで何があったのかを知っていれば行動は変わっていたかもしれません。歴史を知らないことによる行動だったのではないでしょうか。

私が昨日目にした記者も、荒浜に何があったかを知っていれば、軽率な行動はなかったかもしれません。

歴史を知ること。その歴史を伝えること。
記憶と伝承の必要性について、思いを巡らせた盆でした。

参考記事:

19日付河北新報朝刊(16版)1面「宵の灯籠 思い出ともす」
同日付読売新聞朝刊(13版)33面「8年ぶり 夜の灯籠流し」
同日付朝日新聞朝刊(宮城12版)23面(地域面)「荒浜の夜照らす灯籠流しが復活」
同29面「戦争遺跡『インスタ映え』」

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