「いい子」ってどんな子?

みなさんは、どんな子が「いい子」なのか学校で習いましたか? 思いやりのある優しい子、ルールをきちんと守る子、勉強ができる子、素直な子。ひとそれぞれの「いい子」像があると思います。今自分の知り合いの中で、このひとはいい子だと思うひとを想像してみてください。

できましたか? では、どうしてそのひとを「いい子」だと思うのでしょう。自分の中の「いい子」の基準をクリアしているからですよね。

では、その「いい子」の基準、「いい子」像はどうやって作り上げてきましたか?

本年度から、小学校での「道徳」の時間が教科として施行されました。今までも「道徳の時間」というものはあったとは思うのですが、教科として設定されるというのはまた話が違ってきます。教科として義務化されると、受ける義務が発生すると同時に評価する義務が発生します。評価するためには基準が必要になるのに伴って、その平等性を求める観点から正解を用意しなければなりません。

しかし、道徳という心の成長を促す時間に「正解」を用意するわけにはいかない。そういった議論で今教育界は揺れています。道徳を義務化するなんて、という意見は多数派。その一方で、子どもの生活の時間の大半を占める学校教育の中で、他人の心や倫理規範を取り上げた授業をすることが現代には必要であるということが、この議論を難しくしています。

今日の朝日新聞に取り上げられたのは、この問題に対して寄せられた三人の意見。

その中の一人、熊本大学教育学部博士の苫野一徳氏は、「公共教育で大切なことは、すべての子どもたちが自由に、生きたいように生きられる力を育むことである」と述べています。哲学の考えでは「自由の相互承認」というのだそうですが、その時点での社会規範に即したモラルを道徳として教えていくのではなく、どのようなモラルを持っていても、それが他人の自由を侵害していない限りは認め合う、という考え方。そのルール感覚を、授業を通して様々な考え方に触れ、学んでいくことが道徳教育の根源ではないかと氏は訴えています。

今まで、道徳や倫理観は「生き方のルール」だと思っていました。道徳の授業では、「あ、こう答えれば「いい子だね」と言われるのかな」と正解を探している自分がいる。そう思ったことがあるのは自分だけではないと思っています。それが次第に自分の中での常識になり、ルールになり、それに反する常識を持ったひと、しかもそのひとが少数派の意見だった場合「非常識だ」と認識してしまう。もちろん、苦手だと思うことも理解できないと思うことも、歩み寄ることすら無理だと思うことも悪いことではないのです。ただそれを「それはルール違反だ」と突きつける、そんなことのない自分になれたらいいと今は思います。

不思議なことに、そう考えるようになってから「このひとと合わない」と思う価値観が増えました。ただ、合わない部分があったとしても、それでその相手を嫌いになったり苦手になったりするのとはまた別の話。大親友に自分の考え方を理解してもらえなかったときはへこみますが、それでも相手がいいと言ってくれていて、自分も相手のことを好きだと思えるのなら。

それを誰かに糾弾される必要もないし、したくもないですね。

参考記事:
26日付 朝日新聞朝刊(大阪10版) 13面(オピニオン) 「道徳どう教えれば」