7月中旬、人生で初めて沖縄を訪ねました。空手発祥の地でその真髄を学び、透き通る海ではマリンスポーツのSUP(Stand Up Paddleboard)を体験しました。そんな多くの魅力をもつ沖縄で最も心を打たれたのは、ひめゆりの塔・平和祈念資料館で語り部をする89歳の女性の言葉です。
「心は16歳のままで。89歳のおばあちゃんが話しても昔話。私のほうから、近づいていかないと」
1945年、当時16歳だった女性は、ひめゆり学徒として伊原第一外科で兵士の看護をしていたそうです。その方は多くの戦争体験を聞かせてくれました。先輩の女学生が栄養不良で弱り、寝たきりになっていると蛆虫がわき、苦しみながら死んでいったこと。学徒隊への解散命令後、親友と手を握り、寄り添いながら帰路に向かっていると、米兵に襲われて離れ離れになってしまったこと。想像を超えるいくつもの出来事を、具体的に、そして淡々と語ってくれました。
他にも、戦争の悲惨さを体感するところは多くあります。
沖縄南部、糸満市にある平和祈念公園の平和の礎(いしじ)には、39枚の刻銘碑に241,468人の名前が刻みこまれています。こんなにも多くの人が犠牲になったのだと、言葉を失ってしまいました。しかも毎年6月23日の慰霊の日に合わせて、刻銘者が追加されます。今年は54人の戦没者の名が刻まれました。戦争の悲劇はいまもまだ終わっていないことを痛感しました。
241,468人が刻銘された平和の礎
平和祈念公園から車で30分ほどのところには、旧海軍司令部壕があります。1944年に掘られた司令部壕がいまもなお、当時のまま保存されています。地上から、105段、20mほどの長さの階段を降りると、指令室や作戦室など8つほどの部屋が迷路のようにつながっていました。中は薄暗く、ジメジメとしています。幕僚室の壁には、自決したときに使用した手榴弾のあとや血痕が残っています。
旧海軍司令壕 自決のあとが残る幕僚室
自決した1人、司令官の大田実中将が海軍次官にあてた電文があります。
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
(沖縄県民はこのように戦いました
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。)
沖縄県民がどれほど厳しい生活をしていたのか。ここが一つの歴史的出来事が起きた場所なのだと感じます。
冒頭の女性の言葉のように、若者にとって、72年前の戦争は、昔話や歴史の一コマのように感じてしまうかもしれません。筆者もその一人でした。しかし、自分の目で見て、話を聞いて、感じてみると、確かに本当にあった悲惨な出来事だったのです。
参考記事
16日付 朝日新聞 13版 24面 「戦争の記憶 孫が継ぐ」
同日付 日本経済新聞 13版 35面 「戦禍の語り 絶やさぬ」
同日付 読売新聞 13版 1面 「平和 語り継ぐ」