「差異」を「普通」と感じられる世界に

26日にあらたにすでも取り上げられた、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件。容疑者の事件前後の動向や、大麻使用の事実なども明らかになっています。どうして容疑者はこのような勝手な思想をもってしまったのか。衆院議長宛ての手紙や措置入院など、予兆はあったにもかかわらず、どうして事件を防げなかったのか。納得のいかない思いを抱いた人は多いことでしょう。筆者もその一人です。前回の投稿で、ダウン症児の出生前診断について取り上げ、「命の選別」についてお話しました。その後にこのような事件が起こり、残念な気持ちをぬぐい去れません。

29日の読売新聞朝刊では、知的障がい者の親という立場の長田繁さん(65)が、障害者支援施設が山間部などに多く、学校でも、健常児とは別の学級が設置されている現状を指摘しています。

以前の投稿でも書きましたが、障がいをもつ子どもたちは特別支援学校に通うか、普通学校の特別支援学級に入るのが一般的です。健常者が特別支援学校の生徒と関わりを持つことは稀ですし、普通学校でも、特別支援学級と普通学級との間にはほんのわずかな交流しかありません。彼らと「分かれて」生活するのに慣れてしまうと、彼らが自分たち健常者とは「違う」「劣っている」人たちなのだと錯覚してしまう恐れがあります。その結果、「自分たちよりも劣っている」のだからと、今回のようにその命を軽視する人が出てきてしまう。到底理解できない、理解しようとは思えない思考回路ですが、実際にあり得ることです。

また、長田さんが紙面で指摘しているように、特別支援学級などのせいで、健常者が障がい児の手助けをする方法を学ぶ機会はほとんどありません。ましてや、障がいを持つ彼らが「なにもできない」わけではないことは知りようもありません。健常者と比べるとなんらかの能力に遅れはあるかもしれませんが、長い年月をかけて彼らも成長していくのです。それまで言葉を発しなかった子がみんなでスイカを食べて初めて「うまい」と叫んだように、日々できることは増えていくのです。

健常者にも得意なことと不得意なこと、すぐにできるようになることと習得に時間がかかることが、人それぞれあります。例えば、私自身、文章を読むのは得意ですが、自動車教習所を卒業するのには普通の1.5倍の時間がかかりました。このような「違い」が「個性」なら、健常者と障がい者の間の差異も「個性」といえないのでしょうか。そうした事実に気づく機会がもっとあれば、偏見を持つ人は減るはずです。

障がい児の親が自分の子どもを普通学級に入れさせたいと学校に申し出ても、いい顔はされないといいます。学校側からしたら手間も気配りの量も増えるので、できれば特別支援学級に入ってほしいのでしょう。もちろん特別支援学級にもメリットはありますし、普通学級に入れなければならないというわけではありません。けれども、同じ空間に障がいのある人がいて、誰もそれを「異常」と感じないという環境が一般的になれば、健常者との間に存在する溝も解消されていくのではないでしょうか。

 

今回の事件を、単に「精神疾患の人が起こした凶行」として受けとめるだけでは不十分です。どうすれば我々は共に生きていくことができるのか。普段から意識すべきことではありますが、よりいっそう深く考える必要があります。

 

参考:29日付 各紙朝刊 相模原殺傷事件関連面