ふと本を手に取ってみたら高校生の頃を思い出した 読むって何だろう?

テストや卒論から解放されて、早いもので1か月近く経とうとしている。ここ最近は配属の関係で4月から他県に行ってしまう友達と飲みに行ったり、ドライブを兼ねて少し遠出をしたり、予定をパンパンに詰めることで出来るだけ「卒業」の2文字から遠ざかろうとしている。

残りの時間を遊びまくることには何の抵抗もないが、ふと大学4年間を振り返る。「書くこと」は沢山してきたと多少の自負はあるが、「読むこと」に関してはあまり自信がない。今からでも読めばいいと言われればおっしゃる通りなのだが、卒論の際に小難しい文献を読みすぎて、本を見ること自体が少し億劫になっているのもある。

ただ、漠然と本棚を眺めていたら、1冊の本が目に留まった。それまで読書にはほとんど興味がなかった高校2年生の筆者を読書の世界に誘った、村上春樹の『国境の南、太陽の西』だ。当時、「どうして村上春樹は僕のことがこんなによくわかるのだろう」と思った記憶だけが残っている。普段本を読む際に感情移入などはしないタイプだが、主人公があまりに筆者に似ていたと思ったからだ。読んでいただければわかる。主人公は浮気をするし、とんでもない奴なのであまり簡単に似ているとは言いたくないが。

 

余談はさておき、ふと手に取ってページをめくると、高校生の頃を思い出した。一人っ子で大都市郊外の中産階級的住宅地に住んでいるという設定。自分にしか感じられないものがあると思ったり、自分だけが知っていることにわくわくしたりすること。「なんだかときどき水搔きのない蛙になったみたいな気持ちがする」のような村上作品独特の比喩表現。今読み直しても、やはり自分のことを書いているのだと思えるし、むしろ影響を受けすぎてこの主人公に似せていっている部分すらあるのかもしれない。

本当は他にも自分を題材にしているとしか思えないようなシーンもあるのだが、書きたくても書けないようなこと(村上作品を1度でも読んだことがある人はどうか察してほしい)、当時に比べわかることが増えてもまだ今の自分では力不足で言語化しきれないものなど、「色々な」という言葉ではまとめきれないほどの感情に襲われた。

 

「読む」というと最初から最後まで気合を入れてとどうしても思いがちだが、こうしてふとした時に読んだり、自分の好きなシーンだけを読み直してみたりすることも、立派に「読む」の範疇に入るはずだ。

この春から新聞記者として働くことが決まっている筆者は、これからも読むことと向き合って生きていくことになる。真摯に、そして丁寧に読むことを心がける一方で、気負いすぎずに読むことを楽しめる自分でいたい。

次にこれを開くときはどんなことに気づき、どんなことを思い出すだろう。そんなことを思いながら、そっと本を本棚に戻した。

 

参考記事:

24日付 日経電子版 「読むことの深み~ドストエフスキーをめぐって 若松英輔」

読むことの深み〜ドストエフスキーをめぐって 若松英輔 – 日本経済新聞 (nikkei.com)

 

参考資料:

村上春樹 『国境の南、太陽の西』 講談社