【スケート】祝30周年 佐々木総監督に聞く倉敷FSCの道のり

 

今年で30周年を迎えた倉敷フィギュアスケーティングクラブ(以下、倉敷FSC)。アジア男子初オリンピックメダリストの高橋大輔さんや全日本選手権2位の田中刑事さんなど数多くのメダリストを輩出している。アイスダンスにも力を入れオリンピック代表に選ばれた小松原美里・尊選手も輩出している。

筆者は2014年に倉敷FSCへ入部し、25周年と今回の30周年を体験した。私の知る倉敷FSCはたったの9年弱だが、それでも年を重ねるごとに変化を遂げてきている。今回佐々木美行総監督に取材した。指導者の思いをこの記事を通して少しでも届けたいと思う。

この30年という年月の中で、リンク存続の危機が訪れたことがある。かつてのホームリンクは社会保険庁が前身の保養施設「ウェルサンピア倉敷」だった。しかし、08年3月末に社会保険庁が売却したが、その後の落札者が決まらなかったためリンクは閉鎖された。その後、一旦はスケート連盟がリンクのみを借り受け自主運営していた。

その間も、「倉敷のスケートリンクの存続を願う会」を立ち上げたクラブの保護者や関係者が署名活動を続け、行政や市民に働きかけていた。ついに、09年2月24日、学校法人加計学園(岡山市)が施設を落札し、リンク存続の見通しが立った。筆者は総監督から自分のホームリンクがあること、練習する場所があることの大切さを幾度となく聞かせてもらった。総監督は当時を振り返って「あのこと(リンク存続の危機)が無かったら経験しなかった陳情もさせてもらった。スケートのおかげで普通の生活以上に経験は深まり、幅ができた。普段の生活では知らない顔してても良いようなことも、知らない顔できなくなった」と語る。

大きな転機となったのは新型コロナウイルスだろう。総監督も語る。「25(周年)から30(周年)の間は時間がゆっくりだったかもしれない。人との交流が断たれちゃったり、試合が無観客になっていったりとか、本来、観客と一体になって楽しむことができていた競技だったが」。声援が無いことが当たり前になってしまっていた。

筆者も感染拡大前の当時を振り返る。自分の試合の時に倉敷FSCの子たちが「花音ちゃんがんば〜!」と叫ぶ声が聞こえ、緊張を少し和らげてくれた。自分もクラブの子が試合に出場していたら声援を届けた。「演技始まるよ!」と誰かが言ったらみんな急いでリンクに向かいお腹から声を出して応援する。あの時は当たり前のことと思っていたが、今になると当たり前では無かったと痛感する。新型コロナウイルスが与えた被害は大きなものだった。拡大前を知る選手たちが率先して仲間を団結させていかなければならない。後輩たちには声援する、される喜びを味わってもらいたい。

佐々木総監督も30年を経て、2年前頃から迷いを持っているという。今の時代、監督はどんな役目をすれば良いのか。「上から言われただけの受け止めだと、言われたのでやりました、みたいになって結果が良いことにならない。聞いてあげなければいけない時代になっている」という。カウンセリングマインドがないと向こうが心を開かないのだ。時代に合わせた指導者像を常に考えているようだ。総監督などという厳めしいものでなく、新しい環境に合った肩書きを探している最中だそうだ。

30周年を迎えられたのは佐々木総監督の努力、そしてリンクを守ろう、支えようとする人たちのおかげだろう。佐々木総監督はこれから40年、50年、そして100年を目指したいと語る。

「ホームベース」のような存在でありたいと語る佐々木総監督。時は経ち、形は変わっていても、また集まれば当時に戻れる。切磋琢磨してお互いのスキルを高め合い、オリンピックに出場するような選手までいる。25年には岡山県で西日本としては初の冬季国体が開催される。それも倉敷FSCのホームリンクであるヘルスピア倉敷で。選手たちの成長が楽しみだ。

 

参考文献

・読売新聞オンライン、「荒川静香さん アイスショーは「恩返し」…25日から横浜で「表情・演技 楽しんで」、2023年8月18日、

https://www.yomiuri.co.jp/sports/winter/20230818-OYT1T50161/

・朝日新聞デジタル、「ジャッジ、コーチが見つめた成長 人を魅了した「かなだい」の3年間」、2023年5月17日、藤野隆晃、

https://digital.asahi.com/articles/ASR5J7VYKR4WUTQP01F.html

・山陽新聞、「サンピア倉敷リンク存続へ 待望の朗報「感謝」」、2009年2月25日、小川正貴