今年で、戦後78年を迎えます。各地で慰霊祭が行われ、テレビや新聞などでも当時の様子をとらえたドキュメンタリーや特集が組まれています。戦争の惨劇を伝えてきた「語り部」の高齢化も指摘されており、戦争の経験をいかに後世へ残していくのか、重い課題となっています。
そんな中、読売新聞が「わたしが見た戦争―戦争投書アーカイブ」というウェブサイトを立ち上げました。戦前から戦時中、読売新聞に投稿され、掲載された投書をもう一度掘り起こし、アーカイブ化するというものです。市井の人々の「声」が等身大の姿で描写されています。
物資配給への不満
まず、投書の中で多いのが、政府からの物資配給に対する不満です。それがまた具体的で、当時の人々の生活が鮮明に見えてきます。
わがままは言いませんから、どうか塩をください…4か月配給なし(1944年9月25日) では、「戦争です。わがままや勝手は死んでもいいません。私も工員の妻です。人騒がせもいたしたくありません。塩だけぜひぜひ頂きたく思います。お調べを何とぞおたのみ申します」と群馬県に住む女性から悲痛の叫びが投稿されています。
マッチが配給されない…原始時代にかえって生食をしろと?(1944年10月17日) では、「私の村ではマッチの配給が六月以降一度もない。あまりマッチがないので聞き捨てならぬ流言も飛んでいる」と情報が混乱している様子が窺えます。また、「原始時代にかえって生食をしろという気か」という強い言葉で、配給当局に怒りをぶつけています。
戦時中の風紀
さらに、戦争中ということもあり、他の人のマナーや風紀に対する厳しい意見も多く見られます。
工場に勤務する青年からは、「各種工場に通勤する青少年たちの服装が紊れて来たように思う」と服装の乱れが指摘され、「銃後産業戦士の服装態度かと疑いたくなる」と手厳しい言葉が他の工場労働者に投げかけられています。
また、41年12月4日の投稿では、映画館に朝から入り浸る大学生について「切に猛省を望む」と批判を浴びせています。まだ、太平洋戦争自体は始まっていませんが、日中戦争はすでに始まっており、世間が「戦争ムード」であることがわかります。
朝から映画館にいる享楽的大学生 猛省を(1941年12月4日)
終戦後一転する世論
45年8月の終戦を機に、戦時中の抑圧的な考えから打って変わります。
玉音放送から一週間が経過した8月23日には、「全くの無意味な形式主義一点張りが如何に多かったことか」「我々は今こそじっくりと反省すべきである」と早くも敗戦に対する反省が述べられています。
日本人は戦闘帽にゲートル姿…口先ばかりの形式主義を反省せよ(1945年8月23日)
また、一般国民の怒り 財閥は進んで財産を提供しろ(1945年10月14日) では、「財閥は徒らに自己保存の近視眼的対策に捉われることなく深く敗戦日本の現状を査察し、大乗的見地に立ち速かにこれに処するの対策を講ずるの要があろう」と冷静な筆致ながら戦争を政府と共に進めた財閥に猛省を促しています。
小説や論文ばかり対象の英語教育 今は英会話を重視すべき(1945年9月23日) においては、アメリカに占領された日本人は「一歩戸外に出れば一人々々が外交官として米人に接触せねばならない」と指摘し、英会話の重要性を唱えています。この時点で、すでに将来のために英語を勉強するべきだと主張していることから、当時の人々が、敗戦に打ちひしがれながらも、前を向いて生きていく力強い姿が浮かび上がります。
このように戦時中あるいは終戦直後の投書を見ると人々の生活が具体性をもって語りかけてきます。以前、大学の授業で新聞は最新のニュースを届ける役目もあるが、「記録」媒体としての役割も担っていると聞いたことがあります。78年経っても、「文字」として当時の人々の気持ちを知ることができるのは、記録媒体としての新聞が機能している証左なのかもしれません。みなさんも、過去の新聞を読んでみて、当時の人々に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。