「笑い」に罪はない

「『笑い』は凶器なのか」。13日付の朝日新聞朝刊オピニオン欄の見出しに、新聞をめくる手が止まりました。「笑い」自体が問題視されるのはどうしてなんだろう、いまこそ人々を笑顔にすることが必要なはずなのに。いぶかしく思いながら、3人のご意見を読み始めたのです。

ところがこの記事は「笑い」を批判するどころか、逆にいまの「社会」が抱える問題を浮き上がらせる不思議な仕上がり。まさにアイロニーの手法だなあと感心し、うなずきながら読み進んだのでした。

「笑い」への問題提起の背景には、吉野家元常務の「生娘をシャブ漬け戦略」発言のように、笑えない冗談が炎上するケースの増加があります。

誰かの容姿をからかったり、暴力を振るったりするお笑いが問題視され、「人を傷つけない笑い」が求められるようになりました。(8月31日付朝日新聞デジタルから)

最近炎上しがちな「ジョーク」のほとんどは、冗談の質の低さはいうまでもないので、批判の矢面に立つ個人を擁護するつもりはまったくありません。でも、わたしが注目したのは美学者の木村覚さんの言葉です。

事件は笑いと偏見の関係を、深く考える契機になったのでしょうか。単に言葉じりをとらえ「この言葉は NG 」といったノウハウだけが教訓として残されたに過ぎないのなら残念です。

多様性を重んじる社会となり、そこで SNS(交流サイト)が発達したことから、枠に収まらない意見や主張は強い反発を受けるようになりました。でも「この言葉は NG 」と、そつのない発言や振る舞いで器用に生きていける人間ばかりになっても、差別や偏見はなくなりません。

かつて女性差別発言が冗談として受け入れられた時代があったから、いまでもおもしろいと思う人がいます。社会を根本から変えなければ、いつ反動で同じような時代に戻ってもおかしくありません。

一方で、言葉じりをとらえる人が多すぎるのも問題です。思い出されるのは江戸時代の寛政の改革。当時の政治を水の流れにたとえた「白河の清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」という有名な狂歌を中学校で習ったことをよく覚えています。規制の多すぎる政治は窮屈すぎて、とても耐えられるものではないし、新しい文化や多様性が生まれる機会が失われるのです。

誰かを傷つけないという消極的な自由ではなく、みんなが幸せになれるような積極的な自由を求めます。ユーモアも時代に合わせて進化するでしょう。いまの社会には絶対に「笑い」が必要です。

じゃあ、僕は道化役といこう。おんなじ皺がよるものなら、笑いさざめいて年をとろう。(『ヴェニスの商人』から)

参考記事:

2日付 朝日新聞朝刊(13版)11面 耕論「『笑い』は凶器なのか」