「ギフテッド」。海外で天才児を指す言葉です。こうした子どもたちは、記憶力や数学力に飛び抜けた才能を持つ半面、こだわりの強さや集中力のなさなどから周囲に馴染めないことがあるそうです。30日付の朝日新聞では、小4で英検準1級に合格した、IQ154の小学5年生の苦労が取り上げられていました。
海外では、並外れた知能や芸術的才能、特定の学問分野の能力などがある子供を「ギフテッド」と呼び、特別な教育プログラムを用意する国もある。特異な才能のある子供は、障害があったり、同世代の子供と発達レベルに差があったりし、対人関係がうまくいかず、不登校になるケースもあるという。(読売新聞オンラインから)
ギフテッドという言葉は何度か耳にしたことがありますが、深く考えたことがありませんでした。「才能」という言葉があまり好きではないためかもしれません。初めてネットで検索してみたのですが、とても驚きました。天才たちの輝かしい功績よりも、「才能がありすぎるために苦労している」という記事や動画が目に付いたからです。
わたしには、周りよりも賢すぎるために話が合わなかった、なんて経験はありません。でも、グループでなんとなく自分が場違いな人間だと感じ、気まずい思いをしたことは何度もあります。原因は服装や話題、所属する団体の違い。「みんなとは違うから」というのが共通した理由でした。小さな仲間はずれは日常で簡単に起こり得るもの。学校で誰よりも勉強できて、変わっているとみなされてしまったら・・・。ギフテッドの子どもたちが浮いてしまうのも分かります。
文部科学省は来年度から「特異な才能を持つ児童」のための支援策を始めるそうです。エリート教育として過度に個人をもてはやすのではなく、学び合う機会を伸ばすのであれば、望ましい動きだと感じます。生き生きとした子ども時代を守ることで、多様性を認め合える社会につながるかもしれません。
ギフテッドといわれる人がいるように、何かに到達するための速度も、到達できる場所も人によって違うのは確か。しかし、わたし自身は「才能」という言葉はなるべく使わないようにしています。もしも何かの才能があったなら、その道を歩まなければいけないと強制されるような気がするからです。逆に才能がなかったら、あきらめなければいけないということでもあります。私は人生を自分以外の誰かに決定されたくはありません。
いつだって大切なのは、始まりを決断できるかどうか。向き、不向きにかかわらず、やるかやらないかを選ぶ瞬間は必ずきます。わたしが何かを才能と呼ぶなら、「いつも自分が信じた道を選び続けること」。誰だってペンと紙があれば小説は書けます。しかし書くと決めた人間だけが作家になれるのです。
「才能があるから」「才能がないから」という理由で悩む人が減ることを願います。ニーチェいわく、誰にも一芸があるのだから。
参考記事:
30日付 朝日新聞朝刊(13版)29面「小学校が苦しい IQ154の私」
参考資料:
読売新聞オンライン
「『ギフテッド』の子供を文科省が支援へ…特定分野への並外れた才能、学校生活になじめないケースも」