沖縄地上戦の話 他の人はつむげない言葉

先週、あらたにすメンバーの佐藤道隆さんとともに沖縄を訪問した。3泊4日の行程は天候に恵まれなかった。梅雨入りしているから当然と言えば当然。返還から50年目の5月15日も朝からひどい雨だった。亜熱帯地域特有の地面をたたきつけるような土砂降り。この日はひめゆり平和祈念資料館に行ったが、足元が悪かったからか新型コロナが流行していたからか、来館者の数は想像していたほど多くはなかった。

資料館は昨年4月に17年ぶりのリニューアルをした。第一展示室では、沖縄戦までのひめゆり学徒の学校生活が文章などで説明されていた。動員後を伝える第二展示室では、負傷した兵士の治療に実際に用いた医療器具が展示され、カラーのイラストも交えて、分かりやすさが配慮されていると感じた。

リニューアルを告げるひめゆり平和祈念資料館の横断幕(15日、糸満市、筆者撮影)

館内にはさまざまな説明、展示があるが、来館者全員がそれら全てを見るとは限らない。その中で比較的多くの人が足を止めるコーナーがあった。元学徒へのインタビュー映像を映し出したモニターだ。小型テレビほどの画面を15人が食い入るように見ている。私もその一人だ。兵士の死に際に立ち会ったひめゆり学徒の言葉が印象に残った。

「天皇陛下万歳となぜ言わないのかすごく不思議だった。そう言うように教えられておりましたからね。でも兵隊さんたちは、家族の名前や『おかあちゃん』って言って死んでいったんです」

血と膿(うみ)と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えない南風原(はえばる)の陸軍病院。その状況下でもなお、学校教育の呪縛が解かれていない証言に、少し驚いた。

軍国主義教育が行われていたという時代背景。そして、ひめゆり学徒が地上戦で負傷した兵士の治療にあたったという史実。この二つの出来事を知っている読者の方はかなり多いだろう。ただ、だからといって先ほどの「(死に際の兵士が)天皇陛下万歳となぜ言わないのかすごく不思議だった」という言葉とすぐにつながるだろうか。

ひめゆり学徒のその言葉はとっさに自分のスマートフォンにとどめた。今このように原文のままで表現できているのはそのためだ。これ以外にも印象的な言葉をいくつも耳にした。しかし、映像にくぎ付けになり記録を取り忘れてしまった。別にこねくり回した表現ではない、比較的シンプルな言い回し。でも、思い出せない。意味としては「兵士のように怪我して苦しむくらいなら、一発弾に当たって死にたい」と似ていた気がするが、何か違う。

 

実際に経験した人にしか口にすることのない言い回しがあると思う。私は5年前に修学旅行でひめゆり平和祈念資料館を訪れており、史実に関しては知っていることも多かった。それにも関わらず、資料館を出るころには心にずっしりとした思いが残ったのは、地上戦を体験した方々が残した言葉の一つ一つを改めて吸収し直したからだと思う。元学徒へのインタビュー映像が多くの来館者の関心を集めるのも、言葉が持つリアリティーがとても新鮮だったからではないだろうか。

戦争を体験した人の数が減っていく。そうした中、その経験をいかに後世に伝えていくかが議論されている。戦争を知らない世代にも分かるよう、伝え方の工夫は必要だろう。ただ、先の大戦の時代を生きた人々がつむいだ言葉を一切、手を加えることなく伝える取り組みを絶やしてはならない。

1945年6月21日にひめゆり学徒10人が自決した荒崎海岸。資料館で見聞きした当時の状況を想像しながら、手を合わせた。(16日、糸満市、筆者撮影)

 

参考記事:

朝日新聞デジタル 2021年4月13日 「ひめゆりの歴史、未来に継ぐ 資料館、2回目のリニューアル 戦後生まれが企画

 

参考資料:

ひめゆり平和祈念資料館HP 「ひめゆりを学ぶ」

普天間朝佳「戦後生まれが継承する」、朝日新聞社ジャーナリスト学校編『Journalism 2021年8月号』