ウィル・スミスさん平手打ち 非難されるべきは【上】

 

27日夜に米ロサンゼルスで行われたアカデミー賞授賞式で、俳優のウィル・スミスさんがコメディアンのクリス・ロックさんを平手打ちしました。ロックさんが、脱毛症を公言しているスミスさんの妻ジェイダ・ピンケット・スミスさんの短髪についてのジョークを言ったことが原因ですが、これについて波紋が広がっています。

アカデミー賞の運営側や、アメリカの俳優組合(SAG-AFTRA)、米ウォールストリートジャーナル紙は、それぞれスミスさんの行動を強く批判しています。その一方で、日本のSNS上では、平手打ちをしたスミスさんに同情的だったり、賛意を示したりする意見が目立ち、「暴力は許されないという事を堅持しないとだめ」という投稿は多くなかったようです。

私は、平手打ちは「暴力」であり、彼の行動が「大切な人を守るためにした、素晴らしい行動」という捉え方がされてはならない、という結論に至っています。

確かに、このニュースを耳にした時「ビンタでそこまで非難されるのか」という気持ちがなかったわけではありませんでした。テレビ番組で芸人の方が罰ゲームでビンタされるシーンや、ドラマの登場人物が憤りを表す手段としてビンタするシーンを見てきたことが一因かもしれません。遠い異国の地で起きた出来事ですから余計に、エンタメとして捉えてしまう節がありました。血も出ない「叩く」くらいの行為であれば、「暴力」という表現は少し大袈裟な気もしていました。

容姿いじりが笑いになってしまうことは、あってはならないことです。ロックさんのジョークは、ジェイダさんだけでなく、これを見た多くの脱毛症の当事者や、自身の容姿にコンプレックスを抱える人を傷つけたことでしょう。

しかし、これを非難する方法は暴力以外にもたくさんありました。

その場で声を上げる。自身のスピーチに取り入れる。怒りの表情を見せる。私たち人間は他人の気持ちに思いを致す想像力を持ち合わせているのですから、直接的な身体への痛みや恐怖を用いずとも、自分の受けた痛みを伝えることができるはずです。表現のプロである俳優ならなおさら、その手段に訴えてほしいところです。

相手に自分の気持ちを伝えるコミュニケーションの一環として暴力が許されてしまうことは、力の強い者のみの意見が採用される社会の形成につながります。身体の痛みは、言葉による痛み以上に、それを受けた人の次の行動を萎縮させます。確実に、相手を傷つけることになります。力が弱い者の立場は、ますます弱くなってしまうでしょう。一方的な意見の押し付けが生まれ、対話的なコミュニケーションが見込めません。それでは、全員が居心地の良いことを目指す「誰ひとり取り残さない」社会とはほど遠いものになってしまいます。私たちは、人が傷つけられることに敏感になり、「暴力」の持つ力やその危険性をしっかりと認識していかなければなりません。

どんな形であれ暴力は有害で破壊的だ。昨晩のアカデミー賞での私の振る舞いは受け入れ難いものであり、言い訳ができないものでした

私は一線を超えていて、間違っていた。私は恥ずかしいし、私の行動は私がなりたい男を示すものではありませんでした。愛と優しさの世界に暴力の場所はありません(ウィル・スミスさんのInstagramより)

 

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