東京大空襲から77年目の今日

東京都台東区の蔵前駅から徒歩15分、住宅街の閑静にひっそりと立つ柱があります。一見、オブジェのようにも見えますが、近くに寄ると重々しい雰囲気が漂います。

今から77年前の今日、東京大空襲で10万人の命が奪われました。被災者は310万人、負傷者は15万人以上にのぼります。当時、火の海となった三筋町(旧町名)での惨劇がこの柱には刻まれています。地元の有志による「焼け残った電柱を保存する会」により、恒久の世界平和を宣言するものです。

東京大空襲で燃えた電柱 戦災遺構(本日筆者撮影)

本日の朝刊では、各紙が東京大空襲に関する記事を掲載しています。読売と朝日は東京の地域面、日経は「点照」というコラムです。いずれも、江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」に言及しています。東京で唯一の、東京大空襲と戦災を専門とする民営資料館です。今年で20周年を迎えます。

例えばあと20年後、筆者が40代になった時、戦争は語り継がれているでしょうか。そもそも後世に伝えられるほどの情報が、全ての人に備わっているでしょうか。そう感じ、自らの幼少期を振り返りました。

筆者が東京大空襲について詳しく知ったのは、小学校高学年で読んだ「ガラスのうさぎ」がきっかけです。主人公である敏子は、両親と妹二人を戦争で失います。がれきの中から見つけ出したのは、父の形見となったガラス細工のうさぎでした。炎の熱で歪んでしまったうさぎの姿は、戦争の恐ろしさを象徴していました。著者の実体験を元に描かれたこの本は、後にアニメーション化されます。朝日新聞によると、千代田区役所でも本日上映されたそうです。

思えば第二次世界大戦の悲惨さは、「学校」という環境を通して学んでいきました。沖縄戦は、小学1年生の頃に教室の本棚にあった「対馬丸」という絵本で。ハッピーエンドの物語が当たり前という認識が大きく覆された瞬間でした。

原爆投下は、翌年に読んだ漫画「はだしのゲン」で。図書室の隅で恐る恐るページを捲りました。総合学習の時間を使い、担任の先生がアニメーション「はだしのゲン」を見せてくれたこともあります。初めて目にした同級生たちは、惨い描写に耐えられず目を塞いでいました。国語の教科書では「ちいちゃんのかげおくり」「一つの花」など、戦争と家族の別れをテーマにした物語が印象的です。小学校を卒業する頃には、戦争のおぞましさが頭に刷り込まれていたように思えます。それは中学、高校でも同様です。合唱コンクールの課題曲、読書感想文の課題図書、修学旅行先の原爆ドームなど。私たちは戦争を知り、今の幸せを噛み締めてきました。

戦争体験者が減少している今、日本の戦争体験の継承はこれまで以上に重要視されるべきだと思います。戦争の恐ろしさを知り、命を落とした人々を偲ぶことが、平和な社会を築く土台となるでしょう。今年の9月、筆者は教育実習で中学の教育現場に足を運びます。今の子供達がどこまで過去の不幸な歴史を知っているのか、できれば尋ねてみるつもりです。

上野公園の「時忘れじ之塔」も訪ねました。大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。供えられた千羽鶴や花を目にし、今日という平和な日からは想像もできない惨事の犠牲になった人々を偲びました。

時忘れじ之塔(本日筆者撮影)

 

参考記事:

10日付 日経新聞朝刊 埼玉 37面 「東京大空襲から今を考える」

10日付 読売新聞朝刊 東京14版 29面 「戦火の悲劇 にじむ筆致」

10日付 朝日新聞朝刊 東京14版 25面 「東京大空襲追悼の集い」