「もはや主権者であることを諦めざるを得なくなったのではないか」
主権が国民にあるはずの民主主義国家で。そんな悲しいことがあって良いのでしょうか―
今年で沖縄の日本復帰から50年。朝日新聞では10日から12日にかけて「復帰50年 名護市長選を前に」と題して、辺野古問題に、名護市民が、沖縄県が、日本国民が、どう向き合ってきたのかを連載で伝えています。名護市長選は、今月16日に告示、23日に投開票を迎えます。
「移設反対の候補が勝っても工事は止まらず、交付金もなくなるなら、今の市長でいいじゃん、という気持ちはわかる」
「正直、工事は止まらない」とも思う。でも、基地問題とセットにされる子育て支援も、地域の一大事に賛否を示さない市長の姿勢もおかしい、と感じる。その思いを一票に託すつもりだ。
一面に載る名護市民の胸の内。再選を目指す現市長はこの4年間、辺野古移設の賛否に関して、事実上の沈黙を貫いてきました。以前、反対派の稲嶺進氏が市長に就任した時は、約17億円の米軍再編交付金の支給が停止され、工事も止まりませんでした。彼らの言葉の端々からは、諦めの感情を読み取れます。
冒頭に紹介したのは、97年の名護市の住民投票で反対派代表だった宮城康博さん(62)の言葉です。「条件を出しても、反対しても、何を言っても仕方がない。国民世論も怒らない。それなら黙るしかない。それが今、名護で起きていることだ」と、市長の「沈黙」を踏まえて訴えかけます。
「沖縄」が話題に上がった時、果たして何度、辺野古移設問題が頭をよぎり、何度、その議論を口にしたでしょうか。日本という国の安保の問題を、小さな島に背負わせている事実を知ってから今日まで、身につまされる思いをした方は一体どれだけいるでしょうか。私はとても、胸を張って「考えてきた」とは言えません。
近年、大学などの教育現場でも、ビジネスの場でも盛んに謳われてきた「SDGs」は、「誰一人取り残さない」という原則を掲げています。この原則が大事にされるほど、私たちは、安心して生活できるでしょう。誰がいつ、「取り残される側」になるかわからないですから。
これを実現するための極めて有効な手段として、みんなでものごとを決める「民主主義」があります。国民一人ひとりが主権をもち、それぞれの意見が表明される機会があることで、初めて誰もが尊重される社会へと近づきます。
基地をどうすべきなのか。国の安全保障は、どうしていくべきなのか。
その道を研究してきた専門家が言うのならそれしか方法がないのだろう。選挙で勝った人が言うのだから仕方がないだろう。すごく難しい問題なのだろう。考えることを諦める時、大抵私はこうして正当化します。でも、民主主義を実現するためには、それでは足りないでしょう。いくら有能なリーダーが取り仕切っていたとしても、リーダー含め私たち一人ひとりが、当事者の生の声に耳を傾けることをやめてはなりません。
たとえ全員が望む結果にならなくとも、0か100かでどちらが正しかったのか決めつけるのではなく、反対派の意見も可能な限り受け止めてこれからの政策に組み込むべきだし、彼らの声こそ無視してはいけない。主権者としての意見表明を、諦めさせるようなことがあってはなりません。そのためにも、今ある問題に、苦しんでいる人の声に向き合い、考え続ける姿勢を忘れたくないものです。
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