来年もコロナ禍が絶対に終わらない理由

師走はちょうど半ば。デパートや商店街はクリスマスセールで混雑し、飲食店も忘年会で大盛り上がり。一年の終わりをひしひしと感じます。秋以降こそ、街はかつての活気を取り戻したように見えますが、今年もコロナに翻弄された年でした。

昨年12月から始まった第三波。正月明けにかけて感染者が急増し、多くの死者を出しました。全国各地の成人式が中止や延期に追い込まれたことも記憶に残っています。5月には英国由来のアルファ株が蔓延。大阪は医療崩壊の事態に至りました。7月下旬からはインド由来のデルタ株。強烈な毒性と感染力によって、1日あたり最大2.5万人の感染者が発生。基礎疾患を持たぬ30〜50歳代でも、自宅療養中に死亡した事例が後を立たず、苦しい時期となりました。来年もコロナ禍は続くのでしょうか。

私は断言します。絶対に終わらない。そもそも「コロナ禍」とは何でしょうか。NHK放送文化研究所は、新型コロナウイルスの感染拡大で引き起こされるさまざまな災難や不幸、経済的・社会的影響など複雑な状況を指すと定義しています。筆者は人々の心に染み付いた「恐怖心」も、重要な構成要素だと考えます。なぜなら、現段階において、感染者数や死者数が改善され、営業自粛要請も撤廃されたにも関わらず「コロナ禍」が続いているからです。

今やワクチンは広く普及しており、治療法も確立されています。市中感染する可能性は限りなくゼロに近く、万が一かかったとしても、高齢者や基礎疾患を持つ人間以外は死に至らない。それにも関わらず、マスク着用やアルコール消毒、ソーシャルディスタンスを全国一律で徹底し、各種イベントの縮小や中止を続ける国は日本以外ないでしょう。従来の対策を継続することは、費用対効果の観点を踏まえて、賢明かつ効率的と言えるのか、筆者は甚だ疑問です。感染対策は、教育的・社会的・文化的コスト(悪影響)が伴っていることを認識すべきだと思います。

例えば、重症化率が極めて低い児童に対して、学校でマスク着用や黙食を強要することは良いと言えるのか。本来、子供は舌足らずな分、泣いて笑って叫んで感情を表現し、情操が鍛えられるものなのに、マスク着用状態では限界があるでしょう。教室内のマスク着用は仕方ないとしても、運動するときや遠足に行くときぐらい外して良いのでは、と筆者は思います。また、昼食時などに会話する機会も減っており、コミュ力の低下が懸念されます。

大人とて、メンタルの不調を訴える人は数多くいます。昨年、うつ病・うつ状態の人の割合は17.3%で、以前の約2倍に増加しました。日本では、家族や地域、職場における人間関係の希薄化が進行していると以前から言われていましたが、コロナ禍によって、さらに加速したように感じます。他者との関係が弱まれば、独善的な考えに固執するヤフコメ民のような人間が増えることが想像できます。

筆者が通う大学では、様々な文化や伝統が途絶えてしまいました。感染対策を名目に活動を全面禁止された末、消滅に至った零細サークルや部活は数え切れません。何とか活動を維持している団体とて、人数が減ったり、団体運営やイベント開催のノウハウが受け継がれなかったりして、元の活気を取り戻せずにいます。教育的・社会的・文化的影響は定量的に計測できませんが、学校は感染者発生を恐れるあまり、このような弊害を軽視しすぎなのではないでしょうか。

やはり、多少のリスクを受け入れ、過剰な感染対策を見直す必要があると思います。例えば、屋外ではマスクを外して良い。人々が静粛に過ごす図書館や映画館では、座席を間引かなくて良い。マスク着用時は、距離を取ったりパーテーションを設置したりする必要はない。感染者がいない県では、大人数の祭りや宴会を実施可能。対策をこれくらい緩めたところで、問題は特段ないでしょう。

また、対策を継続することそのものが目的化している事例が、各所で見られます。筆者が所属する大学の体育会では、全員が毎朝体温を計測し報告することが義務化されていますが、今や誰も体温計を使っておらず、ルールが形骸化しています。無意味な対策を維持するより、メリハリをつけた方が感染拡大を効果的に抑止できるのは明白です。

来たる2022年。社会全体が恐怖心と同調圧力から脱却して、一定の感染リスクを受け入れるようにならない限り、このコロナ禍は絶対に終わりません。