やめさせた方がよいと思う裁判官については、その氏名の上の欄に×を書くこと
10月31日に控えた衆議院議員総選挙。この日、私たち主権者にとってもう一つの重要な意思表示の機会があります。最高裁判所の裁判官(判事)を対象にした国民審査です。投票用紙には、上記の説明が書かれています。
裁判所の頂点に立つ、最高裁。判決はその問題についての最終判断であり、関係者一人一人の権利がどう扱われるのか、人生がどうなるのかを左右する重要な決定です。選択的夫婦別姓についての問題など、国民全員の生活に深く関わる問題についても判断を下します。
また判例は、長い年月、多くの人を拘束するものになります。筆者は大学で法律を学んでいますが、どの授業でも最高裁の「判例」を学びます。裁判官、検察官、弁護士など、法に司る人は皆、徹底的に読み込んでいることでしょう。最高裁判事は何が正しいと言ったのか。なぜその結論に達したのか。どのような判断枠組みを使ったのか。それを知ることで、日本で法律がどう解釈され、運用されているのか明らかになるからです。そして、判決の多くは過去の最高裁判例を踏襲しています。
それほど重要な「最高裁裁判官」について、私たちが直接審査できる機会が国民審査なわけですが、1949年からの計24回で、過半数の不信任票を投じられ罷免された裁判官はいません。過去5回の審査で、各裁判官についた×印の割合は6~9%でした。注目度も低く、裁判所行政に詳しい明治大の西川伸一教授(政治学)は「衆院選の『刺し身のツマ』のような扱いになっている」と表現しています。筆者の身近な大人に「×つけたことある?」と聞くと、「ないよ。相当悪いことした人って情報があるならわかるけど、『やめさせる』だなんて…」と返ってきました。
確かに仕事を奪うと思うと、×と書くのに慎重になる気持ちも分かります。ただ、私たちにその権利があるということは、彼らが同じように、私たち国民の権利を奪うほどの大きな影響力を持っているということでもあります。厳しく審査されて当然でしょう。
また、×印が有効票の過半数につかなければ罷免とはならないため、1票の影響力は小さいとも思われがちですが、必ずしもこの国民審査の結果は「罷免かそうでないか」のみを表すものではありません。衆院選挙と同じように、一票一票が国民の声として裁判官や裁判官の指名権を持つ内閣に届くからです。
「裁判官は自らの良心に従い、憲法および法律にのみ拘束される」という原則こそありますが、彼らの判断は国民感情を完全に無視してできるものではありません。実際、国民の認識が変化してきているという理由で、最高裁判例を踏襲せず、時代に合った判断が下されたことも少なくありません。
今回の対象者には、選択的夫婦別姓、参院選「一票の格差」、米軍基地移設に伴う辺野古サンゴ移植訴訟など、話題となった訴訟に関わった人も多くいます。結果に納得いかなかった裁判はありませんでしたか。自分と違う考えの判事はいませんでしたか。裁判のことはあまり興味関心がないという方も、少し情報を集めてみてはどうでしょう。どう判断してきたのか、どういった人物なのかわかりやすくまとめられたサイトも作成されています。朝日新聞、読売新聞は、対象である11人の裁判官へのアンケートとその回答を公開。中には「趣味や尊敬する人物、在宅中の余暇の主な過ごし方を教えてください」といった、裁判官以外の姿を知れる質問もあります。新聞に挟まっている「審査広報」からは、彼らの「裁判官としての心構え」を知ることができます。
大きな権限を持つ最高裁を我々国民がチェックできる貴重な機会。本当に投票用紙を真っ白な状態で出すのか、ぜひ、今一度考えてみましょう。
参考記事:
26日付 朝日新聞朝刊(愛知14版)31面(愛知)「教科書で学べない政治教室」
参考資料:
朝日新聞デジタル 最高裁裁判官11人のアンケート回答全文