電車やYouTubeの「脱毛広告」について脱毛の歴史をもとに考えてみた

 

2年前、韓国に留学していたころの話です。ルームシェアをしていた台湾人女性2人から尋ねられました。「日本人女性はなぜ腕の毛まで剃るの?理解ができない」と。筆者自身、脇と腕の美容脱毛に通っていたことがあり、友人たちが思い浮かべる日本人女性のひとりに当てはまります。しかし、当時の私は適当な答えが見つからず曖昧な返事でお茶を濁しました。

それからというもの筆者は時間があれば、自分はなぜ脱毛をしたかったのか考えるようになりました。振り返ってみると高校生の時には腕の毛に目が行くようになり、剃刀を使ってシェービングをしていた気がします。同級生の中には早いうちから脱毛サロンに通っている子も。いつの間にか、脱毛=当たり前のこと・女性の身だしなみのひとつと考えるようになっていました。

本日のあらたにすでは、脱毛の歴史を学ぶとともに、美意識について考えたいと思います。脱毛を良いもの、悪いものと決めつけるのではなく、体毛が過去にどういった位置づけにあったのか知り、美意識とは何か考えるきっかけを作るのが目的です。

脱毛の歴史を学ぶには、レベッカ・M・ハージグの『脱毛の歴史』が最適です。本書では植民地時代から現代にいたるまでのアメリカを舞台に体毛がどういう位置づけにあったのか記してあります。なかでも筆者が印象に残っているのは、第1章の「毛のないインディアン ―南北戦争以前の蛮行と礼節」と第3章の「ひげ面の女と犬面の男―ダーウィンが明らかにした史上最大の露出とは」です。

第1章ではリンネの「ホモ・サピエンスには4つの異なる『種』がある」という主張が取り上げられ、インディアンに言及しています。著作『博物誌』で有名なデュフォンを引き合いに出しながら、「『アメリカの未開人』に体毛がないのは意志や意欲がまったく欠落している表れ」として「論理的思考や社会の規律を守る能力と体毛を結びつけ」ています。ここで筆者が驚いたのは体毛がないということが欠陥と見なされていた時代があったということです。

「18世紀の博物学者の大半は、ひげが豊かであれば理性的な分別も豊かだと扱うガレノス派の医学理論に同調していた」とも書かれており、毛のない先住民の肌はむしろ「生まれながらの弱さ」を示すものだと当時の知識人たちは信じていたことが分かります。

一方、第3章では毛深さを精神錯乱の表れだと考えられてきた時代もあったと書かれています。「たとえば中世の図像学(イコノグラフィー)では、聖なる狂気に駆られる悔悛者の精神的な動揺を表すのに、身体を毛むくじゃらに描くのが常だった。一二世紀初頭、聖書にも登場するネブカドネザル-新バビロニア王国の国王で、屈辱的なまでに落ちぶれたために正気を失い、荒野のなかで獣のような生活送ったという-は、全身を体毛に覆われているように描かれてい」たそうです。《ネブカドネザルのはこちらから》

以上のエピソードからわかるのは、時代によって体毛の評価は異なるということです。では、現代の日本はどうなのか。冒頭のエピソードから察せられる通り、毛がないことは身だしなみのひとつであり、毛を悪だと考える風潮があります。最近では、電車やYouTubeで脱毛サロンの広告を目にすることが増え、ひどい時では「剛毛は不潔」だと決めつけるようなものまであります。

NHKや朝日新聞で報じられているように、脱毛を含めた見た目のコンプレックスを煽るような広告を削除する取り組みも進んでいます。しかし、「グーグルなど大手広告配信プラットフォームも一定の審査基準を設けているものの、それをすり抜ける広告はどんどんつくられ、いたちごっこになっているのが現状」(朝日新聞)です。

この2年間、台湾の友人の一言をきっかけに脱毛は良いことなのか考え続けました。その結果たどり着いた答えは、「広告に左右されず、自分の意思で決めたことなら良いのではないか」です。美意識は時代によって、その時を生きる人によって変化します。なので、何が正しいとは決まっていないと思います。脱毛を考えている人には、広告に流されず、自分の意思で良し悪しを決めてほしいです。

 

参考記事:

8月16日朝日新聞デジタル版「コンプレックス広告やめました 売り上げ減でも挑む理由

2020年7月20日同上「「デブ」「剛毛」あふれる広告 ユーチューブで一体何が

2020年9月2日NHK WEB特集「その広告 行き過ぎていませんか?

 

参考資料:

レベッカ・M・ハージグ著 飯原裕美訳『脱毛の歴史 ムダ毛をめぐる社会・性・文化』東京堂出版、2019