原爆が残したものー見る、聞く、触る、そして繋ぐ

広島・長崎への原爆投下から76年、「八王子平和・原爆資料館」(八王子市元本郷町)を訪れた。市役所隣にあるビルの一室には、2000冊以上の原爆に関する書籍やその惨禍を物語る展示品が並ぶ。市内外から寄せられた資料は、有志の市民によって管理されている。

◆被爆・戦争遺物を見る、触る

驚いたのは展示物を手に持ち、直に見られること。戦争遺物を目にしたことはあったが、触るのは初めてだ。いくつか紹介したい。

原爆の特徴の1つである熱線によって、地表面の温度は3000~4000度にまで達した。屋内にあっただろう5枚の皿は溶け、それぞれくっついたまま離れない。陶器を溶かすほどの熱が人の上に注がれたと考えるだけで恐ろしくなる。

一見花瓶のようにも見えるが、これは有田焼で作られた手りゅう弾。片手では心もとなく、両手で支えたくなるほどの大きさ。そしてずっしりと重い。遠くまで飛ばすにはかなりの腕力が必要だっただろう。人や物資のみならず、伝統工芸までも戦争に駆り出されていたのだ。

最も衝撃的だったのは、被爆し亡くなった豊嶋長生(とよしま・たけお)さんが着ていた学生服だ。空襲での火事被害を抑えるため、家を壊す作業に動員されていた豊嶋さんの近くに原爆は投下された。翌7日に14歳の若さで亡くなった。衣服は手当のためハサミで切られている。ぼろぼろな布地に染み付いた血の痕が、原爆の猛威を語る。

 

◆被爆体験を聞く

展示を見終わった後、資料館を運営する1人として、広島での被爆経験を語り継ぐ上田紘治(こうじ)さんにお話を伺った。

3歳半のとき、爆心地から約10km離れた母の実家で被爆した。ピカッという閃光とドーンという轟音。祖母に背負われ庭に出た上田さんは、空を舞う落下傘を見て「お月様だ」と叫んだという。上空の気象を測る観測機「ラジオゾンデ」が原爆と一緒に落とされていたのだ。人手不足のため、母は負傷者の救援にあたった。薬などあるはずもなく、できたことは蛆虫をひたすら割り箸で取り除くことだけだった。

「被爆者として経験を語る責任がある」と話す上田さんだが、当時の記憶はほとんどない。母や平和運動の先輩から聞いたことを自分なりに伝え続けている。記憶がなくても原爆の悲惨さを語り継ぐ理由は、被爆者の言葉が核なき世界への大きな一歩となるからだ。

「核がない世界は、被爆者だけの願いではない。被爆の実相を知って核を使いたいという人はいないよ」

 

◆そして繋ぐ

この夏、世間の関心は別のところに向けられているように思える。自国開催の五輪への興奮と不信。アスリートの勇姿。その背景で増え続けるコロナ感染者数。決して無視できない話題だ。しかし、原爆の惨害に無関心である理由にはならない。被爆者に語る責任があるとすれば、原爆を知らない世代には「知り、それを語り継ぐ」責任があるはずだ。

今年1月核兵器を禁止する初めての国際条約「核兵器禁止条約」が発効し、核武力に頼らない世界へと前進した。被爆者の声が70年以上のときを経て、ようやく届き始めた。バトンを繋ぐのは私たちだ。

※写真は全て6日筆者撮影

参考記事:

7日付朝日新聞夕刊(東京4版)1面「長崎の被爆資料守り続けるため」

8日付読売新聞朝刊(東京12版)9面「あすへの考 戦争体験「記憶」する時代」

参考資料:

上田紘治著『核兵器廃絶への思い―再び広島・長崎を繰り返すな―』天地人企画

八王子平和・原爆資料館ホームページ