スマホジャーナリストの罠

■Everyone is a journalist…?

英語の教科書にこんなフレーズの見出がありました。「Everyone is a journalist(すべての人がジャーナリストだ)」。最近になって、ツイッターやYoutubeの映像が公共ニュースで使われることが増えました。職業ジャーナリストは、常に現場にいるとは限りません。多くの事件で第一報を発信するのは一般人なのです。

撮影から発信まで全て行えるスマートホンの誕生によって、ジャーナリストとしての武器を揃えた「スマホジャーナリスト」が増えました。その一方で、そうした人々による報道は危うさもはらんでいます。

サッカー欧州選手権のイングランドVSイタリアの決勝が7月11日午後8時(現地時間)にウェンブリーで行われました。ロンドン市内は大盛り上がりでした。筆者は、サッカー欧州選手権をレポートする絶好の機会だということで、大型テレビで観戦することに決めました。

まさに混沌としていました。コロナ禍であるにもかかわらず大勢の人が集まり、酒を飲み、マスクなしで応援の歌を歌っています。そこら中に大量のゴミが散乱しており、登ってはいけない柱の上で観戦する人、警察に止められても無理やり敷地内に押し入ろうとする人、グラスの破片が目に入って血を流している人などもいました。地元の人にこれ以上近づくのは危険だと警告されるほどでした。

(写真①)

(写真②)

(写真③)※7月17日筆者撮影

筆者はこの様子を撮り続けながら、ここへ来たことの意味について考えていました。こんなに大勢の人が集まるのは危険だと感じながら、自分もそこにいた若者の一人であったからです。自分は撮る側であると同時に撮られる側でもあったのです。プロではない筆者にとって、「取材のため」という言い分は通用しません。それは一種の野次馬と何が違うのか、うまく説明ができませんでした。

 

■「野次馬」と「報道」

警察と乱闘している若者を目撃したとき、周囲にいた大勢の人がその光景にただスマホを向けていました。幸い大きな怪我人は出なかったからよかったものの、もし殺傷事件にまで発展していたらどうなっていたでしょうか。その映像は何の編集も加えられないままSNSで流されたことでしょう。被害者や加害者の事情を全く考慮しない映像が好奇の目に晒されながら、あっという間に広まっていたかもしれません。

情報の発信者に誰もがなれるこの時代。一般人による情報収集や取材行為は、見物人による好奇心からの振る舞いと捉えられかねません。不幸な話やおぞましい事件が「インスタ映え」や「エンタメ」を提供するための餌として使われるのです。野次馬と報道は、何が違うのでしょうか。

筆者は、ピューリツァー賞を受賞した「ハゲワシと少女」という写真を思い出しました。ほとんど骨と皮だけの痩せこけた少女がうずくまっているところを、ハゲワシが狙っている写真です。これを撮影したケビン・カーターを待っていたのは称賛ではなく、「なぜ少女を助けなかったのか」という非難でした。その後、彼は自殺してしまいます。※NationalGeographic「第3回ピューリツァー賞が与えた影響」(2012年1月30日)

たとえプロの写真家であっても、このようなバッシングは起こり得るのです。実際は、写真を撮影したのちにハゲワシを追い払っていたそうですが、たしかに写真を撮るだけ撮って帰っていれば、それは野次馬と何ら変わりないのかもしれません。

両者の違いは、報道に携わる者としての当事者意識を持つことができるか、そして伝えたいことがあるかどうかがだと考えます。記事を書くためにネタを探すのではなく、伝えたいことがあるから記事を書くというのがジャーナリストのあるべき姿なのではないでしょうか。スマホ一つで誰もが発信者となり、他人の人生を簡単に覗けるようになった今、安全な外野に身を置きながら、騒ぎの火種をまくことだって容易にできます。発信する側は大きな責任を背負っていることをこれからの取材でも意識しなければなりません。

 

参考記事:

17日付朝日新聞デジタル「動画にYouTube…変わる災害報道 熱海土石流」