表面的な男女平等 欠けているのは何か

男女平等。東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の前会長、森喜朗氏の女性蔑視発言から、その意識が一層強くなっている気がします。後任の橋本聖子氏は女性理事の割合を40%に引き上げを最優先課題としました。3日の臨時評議員会で理事の定数を増やし、新たに12人の女性を選任しました。しかし、前会長の発言で失った信頼の回復に向けた取り組みは、男女平等と言えるのでしょうか。

そもそも男女平等とはどのような概念なのでしょうか。男女の性別による差別を受けず、社会的地位やそれに基づく権利、義務、待遇などにおいて平等であることを言います。また経済的、政治的、社会的、文化的に平等で、それぞれに独立した人格である状態をさし、それが望ましいとする思想です。

最近は、表面的に男女平等を褒める傾向にあると思います。例えば、今年の初めにアメリカ合衆国大統領に就任したバイデン氏は、政権の閣僚やホワイトハウスの要職に女性や非白人を積極的に起用。現副大統領であるカマラ・ハリス氏の演説は、日本でも大々的に報道されました。アメリカのように女性が活躍する社会が理想的だという風潮が、この頃から少しずつ強まってきた印象です。筆者の周りでも、バイデン氏の起用に賛同する声が多く挙がっていました。

しかし、「本当に能力や実力で選んだのかな」という疑問が浮かんできました。多様性のアピールをするために選任したのであれば、女性や非白人を上手く利用したと解釈できます。また女性を軽視する行為でもあり、平等とは言えません。

今回のニュースでも、似たような感情を抱きました。社会における男女平等は、「機会の平等」と「結果や評価の公平性」とのバランスで成り立つものだと考えます。女性の社会進出を推進する一方で、男性の存在も蔑ろにしてはいけません。

参考記事:

3日 朝日、読売、日本経済新聞各社朝刊 東京五輪・パラリンピック関連記事