なくしたものの価値を見つめなおす

文科省は23日、対面授業が少ない大学名を公表して対面授業を促しました。今朝の新聞では、大学が対面授業に踏み込めず、板挟みになっているという記事が目立ちました。大学側からは「個別の事情を考慮していない」との声もあるようです。「生徒の8割がスクールバスを使っているので密を避けられない」「教室数を確保できない」などの理由が挙げられていました。確かに、大学名公表が「一方的」だと批判されてしまうのは理解できます。

しかし、未だにほぼオンライン授業だけという大学は、もう少し工夫が必要なのではないか、と思っています。

私は子ども達とキャンプに行くボランティア団体に所属していますが、この記事を読んで思い出したのは、「やめてしまうのは簡単なこと」という言葉でした。コロナ禍で、合宿研修を開催するかどうか、子どもたちとのキャンプを開催するかどうか議論される際に、団体代表から幾度か発された言葉です。この言葉を聞いて、何度も活動の意義、子どもが成長過程で私たちのキャンプに参加する価値を考え直しました。

この夏も、様々な対策を講じた上でキャンプは開催されました。子どもを送り出す保護者を前にして、スタッフが「思い切り遊ぶのってこんなに楽しいんだと感じてほしい」「子どもの成長は待ってくれない」と力強く訴え、保護者の方が大きく頷いてことが、強く印象に残っています。幸い感染者が出ることもなく終え、参加した子どもの保護者の方からはたくさんの感謝のメッセージが寄せられました。

スクールバスを使うことがすなわち感染拡大につながるのか。教室数を確保できなくとも、限られた授業で少しずつ試験的に対面授業を進めてはいけないのか。経済活動と関係の薄い大学では、絶対にクラスターをゼロに抑えなければならないのか。そもそも、今までの対面授業の価値はどこにあったのか。オンライン授業で事足りてしまっているキャンパスでは、学びの場が形骸化していないか。

コロナを理由にやめてしまうのは、致し方ないことかもしれません。けれど、中止によって失ってしまう価値を、長期的な目で捉えなおすことも求められていると思います。

 

参考記事:

24日付 朝日新聞朝刊(愛知14版)1面「対面授業 苦悩する大学」関連記事28面