なぜ学校に行かなければならないのか

皆さんにとって、学校とは何でしょうか。言い換えれば、なぜ学校に行くのでしょうか。

一口に学校と言ってもその形態は様々です。義務教育の課程に組み込まれている小学校と中学校。その前後に存在する幼稚園や高校、そして大学や専門学校などもあります。また、生徒の年齢が上がるにつれて専門性も登場し、小学校では基本的に担任の先生が国語や算数、理科や図工などを一人で教えます。中学に入ると各教科個別の先生が存在し、高校になると文系・理系の選択を迫られ、大学では法律や経済、医学や工学など極めて高度で専門的な内容を深く学びます。

思い返せば、学校では様々な経験を与えられました。小学生の頃は毎日お母さんに怒られるまで友達と公園で遊び、中学生のころには好きな子の存在が気になり、高校生になったら母親に作ってもらったお弁当を昼休みになる前に食べてしまい(いわゆる早弁というもの)昼休みにはまた別のご飯を食べて…。

どれも学校に通わなければ得られなかった経験です。一人そこに住んでいても友達や好きな子は勝手には生まれません。しかし、学校に通う者の宿命は勉強です。苦手な教科はだれしも存在します。筆者は古典がからっきしダメで、古文単語はほとんど覚えられませんでした。

学校というものが学ぶ場であるならば、なぜ人は苦手な教科も含めて与えられた科目を学ばなければならないのでしょうか。中高生のころは、「古典なんて勉強しても将来使わないのに」「化学方程式を解けるようになったところで何の意味があるのか」と考えた人も多いはずです。確かに、大人になっても古文単語や化学方程式を使う人は、学校の先生や学者などごく一握りの人たちでしょう。

でも、そういう人たちは、古文単語を知らなければその仕事に就けなかったはずです。逆に言えば、知っていたからこそその仕事に就けた、とも考えられます。つまり、学校で習う知識や考え方は、子供たちが将来どんな仕事に就きたいかを考えるヒントであるといえるのではないでしょうか。それぞれの先生が、「世の中にはこんな知識や考え方があるんだよ」と生徒に分かりやすい基礎的なことを例示して、もし何か一つでも興味関心を持った分野があれば、その先の学校でより専門的な内容を学ぶのです。しかし、それだけを早々と学んでしまっては潰しがききません。だからこそ、高校くらいまでは「ほかにもこんな知識があって面白いよ」というヒントを先生たちが与え続けてくれます。

もし学校が存在しなければ、いきなり社会に放り出された子供は何をしていいか、何をどうやって学べばいいのかわからないはずです。もしかしたら小学生くらいの年齢の子供がいきなり大学の専門書レベルの教科書に手を出してしまうかもしれません。

将来、大人になってから「あの仕事かっこいいな」と思って就きたいと考えても、それまでに予備知識がなければ相当な苦労を伴います。だからこそ、前もって「広く浅く」世の中のことを過去から現在まで知ることが大切なのです。

こんな偉そうなことを言っている筆者ですが、高校生の頃までは何も考えていませんでした。でも、最近少し落ち着いて過去を振り返ることができるようになってきました。全国の多くの学校が休校になっている今。そして春から新しい学年・学校へ歩みだす方々に、今の学校がない時間を有効に使って、学校の存在を自分に問うてみてください。

参考記事:

7日付 読売新聞朝刊12版 31面(社会)「「学べば伸びる」 知る機会」