水俣病70年(中) 進行する病状と届かない救済、それでも患者として生きていく

5月1日、水俣病の公式確認から70年の節目を迎えた。患者と認められたのは、熊本・鹿児島両県で2284人。存命の患者の平均年齢は82歳と高齢化が進む(2026年3月末時点)。患者や支援者らは、これまでの年月をどのように生きてきたのか。胎児性水俣病患者として語り部活動を続ける松永幸一郎さん(62)に聞いた。

 

(2026年4月22日筆者撮影 オンライン取材に答えてくださる松永幸一郎さん)

 

本稿は、上・中・下の三部構成でお届けします。前回(上)はこちら

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■不知火海のもとに生まれた「脳性麻痺」の子ども

東京オリンピックの開催を翌年に控え、日本中が活気と期待に沸き立っていた1963年、松永さんは熊本県水俣市丸島町に生まれた。

地域が面する不知火海は「魚湧く海(いおわくうみ)」と称されるほど水資源が豊かで、漁業が盛んな地域だった。しかし、この頃の不知火海・水俣湾にはヘドロがたまり、酷く汚れていた。チッソ水俣工場の排水が原因なのではないか。口にせずとも、水俣市民にとって共通の認識であったという。

(引用:2026年4月7日付 朝日新聞デジタル 「しのぶの70年 終わらない水俣病:1」)

松永さんは、5歳になってもうまく歩くことができなかった。年下の子どもたちがかけっこをするようになっても、つかまり立ちしかできない。脳性麻痺が原因だと思われていた。

歩けなかったことから、地元の幼稚園や小学校には入れなかった。「車椅子の子ども向けの施設がなかったからね。出稼ぎする父親の代わりに育ててくれていた叔父さんが役場に行ってくれて、そこで知った『療護園』という施設に通うようになった」。

療護園は、学校と病院が一緒になった施設である。5歳で療護園にある幼稚園に入園し、そのまま小学校に上がった。障害のある子どもたちとともに勉強した。

 

■歩き、学び、遊んだ学生時代

7歳になったころ、やっと一人で歩けるようになった。療護園で比較的障害の軽かった松永さんは、養護学校(当時、現在の特別支援学校)に通うようになり、寄宿舎での生活を始める。ソフトボールと数学、将棋の好きな少年だった。足を鍛えようと自転車に乗り始め、やがてマウンテンバイクを乗りこなせるようにもなった。

高等部では、現在水俣病の認定を求め活動している胎児性水俣病患者・藤枝静香さんと同級生だった。双方とも障害の原因が水俣病だとは知らなかった。「(お互いに)脳性麻痺だと思っていた。きっと、養護学校の他の同級生にも胎児性水俣病患者はいたんだろうね」。

養護学校高等部を卒業後、鹿児島県の身体障害者訓練校に通い、テレビの修理など電気系統の職業訓練を受けた。滋賀県のプラスチック工場に就職したが、長続きせずに水俣に帰ってきた。

 

■自分が水俣病だと知った日

23歳になり、大分県別府市の就労支援施設に入所する。「流れ作業でハードな仕事だったが、やりがいを感じられた」。健常者と障害者が同じ場所で作業した。

24歳、定期健診のために通院した病院で、初めて自分のカルテを見た。「水俣病」と書かれていた。「4大公害病の1つとして、故郷の名前が付けられた病として、水俣病のことはもちろん知っていた。だけど、まさか自分がその一人だとは思わなかった。後から知ったんだけど、父親が申請してくれていたみたい」。

振り返ると17歳のとき、父親に言われるがまま細かい項目の検査を受けていた。これが、水俣病認定のための検査だった。20歳で認定されたが、父親は松永さんに結果を知らせなかった。「差別を恐れて、僕に認定結果を伝えなかったんじゃないのかな。基準が厳しい中で認定を勝ち取ってくれたお父さんには、すごく感謝している。これがあるから、今の僕がいるのかなって」。

 

■「水俣病がなぜ起きたのか、知りたかった」

松永さんが36歳のとき、父親は事故で大けがを負った。共に暮らしていた父の介護が、松永さんの仕事となる。そうした中、見舞いのために行った病院の掲示板に、ふと目が行った。胎児性・小児性患者などの障害を持つ人のための共同作業所「ほっとはうす」の案内だった。

「ほっとはうす」は、メンバーとスタッフ共同で水俣病の継承活動も実施していた。「自分は患者でありながら、水俣病のことを何も知らなかった。だから、入所して勉強したいって思ったんだ」。松永さんはメンバーの一員となり、押し花やポプリなどの製造・販売といった作業をしながら、水俣病のことを学んだ。

加害企業チッソは、自社の工場排水が水俣病の原因だと認識していたこと。国も県もそれを知りながら、経済を優先して排水を止めさせなかったこと。原因発覚から排水停止までの期間に松永さんが生まれたこと。自らが受けた不条理の概要を知った。「水銀排出という誤りに気付いてすぐに行動が改められていたら、僕は被害を受けずに済んだ」。

 

■歩けなくなった、チッソがより憎くなった

できないことは多かったが、幸せを感じることも多かった。「ほっとはうす」では、多くの仲間ができた。水俣病の出張講義として、地域の小学生らと交流した。

特に好きだったのがマウンテンバイクに乗ることである。「ほっとはうす」への通勤や、プライベートでのサイクリングなどでは常に相棒だった。休日には、1時間以上かけて鹿児島県出水市に行くこともあった。

(松永幸一郎さん提供 マウンテンバイクに乗る松永さん)

しかし45歳を迎えたころ、歩行中にひざの力が抜けるようになった。脱力発作だ。その後、股関節に痛みを感じだし、自転車をまたぐ動作がきつくなった。転ぶことが多くなり、マウンテンバイクに乗ることをあきらめた。それから1年後、杖なしで歩行することも困難になる。「最初は何とか1本杖で歩いていたんだけど、それすらも難しくなっちゃったね」。

大好きな自転車に乗ることが困難になり、それまで何気なく行き来していたチッソ工場前を通ると「憎い」という気持ちでいっぱいになった。「健康な体を返せ」。歩けなくなったことで、チッソに対する憎しみや怒りが強くなった。

 

■認定されてもなお、ランク変更の壁

松永さんは今なお、国や熊本県と対立している。水俣病認定患者は1973年にチッソと締結した補償協定に基づき、医療費や療養手当などが支給される。症状に応じて、A、B、Cの3段階があり、「上位のランクに該当するような変化が生じたとき」は変更を申請できる。

松永さんは、歩くことも自転車に乗ることもできた20歳のときにBランクの認定を受けた。歩けなくなり、車椅子が欠かせなくなってから、より補償の手厚いAランクへの変更申請を行ったが、4度退けられている。

認定患者の中には、歩くことのできるAランク患者もいる。変更の審査基準は公表されておらず、明確なものがあるようには思えない。「歳月とともに悪化する症状に、チッソや国はしっかりと対応してほしい」。松永さんは怒りの感情をあらわにした。

水俣病患者は、40歳代ごろから加速度的に症状が悪化していく。「もう、車椅子に自力で乗ることもきつくなってきた。家に一人でいるときに倒れたらと思うと怖い」。患者や支援者らは不安を漏らす。

 

■未来のために、患者として生きる

松永さんは現在、ヘルパーや支援者の助けを借りてアパートで暮らしながら、一般社団法人「きぼう・未来・水俣」の一員として語り部活動を続けている。

休日は趣味に大忙しだ。ゲームで将棋の練習をし、大ファンであるソフトバンクホークスの試合中継は毎回観ている。歳月とともに不安は募るばかりだが、日々を全力で生きている。

(2025年5月17日筆者撮影 福岡市PayPayドーム、大ファンであるソフトバンクホークスの試合を観戦する松永幸一郎さん)

チッソはメチル水銀の排出という過ちを犯した。その過ちに気付いてすぐ排水を停止し、被害者の救済を始めていたら、これほど甚大な生命や環境への被害は生じなかっただろう。後に発生した新潟水俣病は、事前に防げたかもしれない。松永さんも、水俣病の被害を受けなかったかもしれない。考えられる可能性の一つひとつが、チッソや国の行為のむごさを説明している。

「間違えることは誰にでもある。だからせめて、間違いを正せる人間になってほしい」。水俣で起きた不条理はなかったことにできない。だからこそ、未来のために語り続け、これからも患者として生きていく松永さんの切実な思いに、筆者は身も心も引き締められる。

 

本稿は、上・中・下の三部構成でお届けします。次回(下)は5月21日に公開予定です。「水俣病犠牲者慰霊式」の模様をお届けします。公式確認から70年という大きな節目を迎え、水俣の海でどのような祈りが捧げられるのか。悲劇を繰り返さないための誓いと、未来へ語り継ぐべきことを見つめます。

 

参考記事:

・2026年4月30日付 読売新聞(西部) 朝刊18面 「『病気なければ子や孫も』 胎児性患者・松永さん」

・2026年4月25日付 読売新聞(西部) 朝刊29面 「時との闘い 水俣病70年:上 胎児性患者高齢不安」

・2026年4月7日付 朝日新聞デジタル 「しのぶの70年 終わらない水俣病:1「異変」に揺れる街に生まれ」

https://digital.asahi.com/articles/DA3S16439142.html

 

・2026年4月28日付 西日本新聞 朝刊12・13面 「水俣 重い問いかけ」

・2026年2月27日付 西日本新聞 朝刊25面 「『親心』恨めず 心に鍵」

 

参考資料:

・文部科学省 「共同作業所 ほっとはうす(熊本県水俣市)」

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2016/03/14/1222474_034.pdf

 

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