東京・渋谷区の区立松濤美術館で、「路上、お邪魔ですか」という展示が開催されていると知った。
「路上、お邪魔ですか」とは、どのような意味なのだろうか。公式サイトによれば、かつて日本には、公界(くがい)と呼ばれる一定の制度や権力の及ばない自由な空間が存在していた。寺社の門前や宿場町に見られた領域は、移動する人々や芸能を受け入れ、文化や交流を育む装置でもあった。現代における「路上」も所有や統治の枠組みが曖昧で、ときに制度へのレジスタンスによって路上に自由を見出そうとしてきた。ただ、路上は排除の論理によって居心地の悪さや不安定さも抱えているという。
そのうえで、「本展では、路上をキーワードに紹介可能な作品や歴史的なできごと、さらには言説をふくめ、現代においてますます複雑になる公共性がもつ課題を考えます」「『自由』と『邪魔』が共存する路上においてこそ、批評的な文化実践が数多く立ち上がってきたのです」と呼び掛けている。
「路上の公共性」とは、まさに渋谷をはじめとする都市が直面している問題なのだろう。より具体的に何が展示されているのかが気になったため、実際に行ってみることにした。
展示室に入ると、まず、筆者の好きな写真が並んでいることに驚いた。ガードレールや標識、送電線といった、路上に影を落とすモチーフが好きだ。展示されている写真には「路上観察学会」という団体や、ダニエル・エヴェレットというアメリカの写真家の作品が並んでいた。「路上観察学会」とは、1970年代に入った頃から「路上にさまよい出て、その辺にころがるヘンテコなものを観察し始め」た人たちが、86年6月10日に結成した団体らしい。同時に刊行した『路上観察入門』(筑摩書房)はたちまちベストセラーになり、各マスコミを賑わせたそうだ。
「路上観察学」とは何なのだろうか。展示の説明によると、震災復興期の東京で、バラックのスケッチから街の観察をはじめた今和次郎、吉田謙吉両氏による「考現学」を始祖とするそうだ。路上観察学の観察対象は、マンホール、井戸ポンプ、塀、門、コンクリートブロック、郵便受け、ハリガミ、看板、街路、植木鉢、ニワトリ小屋、雨どい、児童公園、路面標識、装飾動物、影、シミ…といった「物件」が主で、人間、犬猫といった生き物、風俗、ファッションといった「ナマモノ」は観察対象ではないらしい。
筆者は散歩が好きで、普段から上記のような要素が入り込んでいる景色の写真を撮ることが多い。しかし、あまり「路上」というくくりでそれらを捉えたことはなかったため、自分の好みの風景が、路上観察学における「物件」という観点で再構成されているのは面白かった。
アメリカの写真家ダニエル・エヴェレットについても説明があった。エヴェレットは、写真の中で「自由とルールが折り重なった都市の複雑な様相を、現代の日本を舞台に映し出している」そうだ。監視カメラや道路標識、看板や工事現場の仮囲いなど、「そのときどきの必要性に応じて積み重なった都市の事物たち」に対して、「制度やインフラとその使用者という二項対立ではなく、制度自体の不安定さや不確かさが透けて見える」ような作品らしい。
エヴェレットの作品の中にある、道路標識や電柱、絡まった送電線といったモチーフに、漠然と「かっこいいから」という理由で惹かれていた。しかし、エヴェレットはこれらに単なる幾何学的なロマンを超えた「路上における制度自体の不安定さ」を見ていたのだと思うと、不思議な感覚にとらわれた。壊れている看板や仮囲いなどは分かりやすい「制度の不安定さ」の例だろう。ただ、筆者はこれらの「不安定さ」が、非常に愛おしく感じる。建設中の工事現場や、駅構内に見られる、何年も前の工事用のメモなども好きだ。これらをざっくばらんに「制度の不安定さ」とまとめてよいのかは分からないが、新たな観点として非常に面白く感じた。
自分が路上を見るとき、その複雑さに惹かれるとき、そこにどのような制度やルールが存在しているかという視点を持ったことはあるだろうか。路上という空間に対して、「窮屈に感じるときがある」「座る場所が増えたら嬉しい」とは思っていたが、そこにどのような制度があるかを考えれば、視野はより広がるだろう。例えば、何気なく従っている信号機などは、必要不可欠なルールだ。ただ、制度が必要であることと、その存在を無意識に受け入れることは別だ。せっかく散歩が好きなのだから、路上をより大きな枠組みで見ながら歩いてみるのも良いかもしれない。





