JR鶴橋駅を出てすぐの商店街
(2026年8月10日 筆者撮影)
筆者は8月10日、大阪市生野区にある「大阪コリアタウン歴史資料館」を訪れました。JR鶴橋駅から徒歩で20分ほど。駅を降りると、商店街や大通りには韓国料理店や韓流グッズを扱う店が並び、海外からも含めて多くの観光客でにぎわっていました。K-POPをはじめ朝鮮半島の文化の人気を感じる盛況ぶりでした。そのような現在の大阪コリアタウンは、日本で手軽に本格的な国際交流を行うことのできる場所になっています。
ただ、大通りから一本外れると景色は大きく変わります。住宅街を進み、車一台が通れるかどうかというほどの細い道を歩いていくと、その先に、周囲の住宅に溶け込むように歴史資料館が佇んでいました。
館内に入ると、生野区のコリアタウンがどのように形づくられてきたのかを伝える写真や資料が一面に並んでいました。そこにあったのは、現在の華やかな観光地としてのコリアタウンではなく、朝鮮半島から大阪へ渡ってきた人々の暮らしや、戦前、戦後の地域の歩み、差別や偏見に直面しながらも文化や生活基盤を築いてきた歴史が残されていました。
館内の様子
(2026年8月10日 筆者撮影)
特に目を引いたのが、現在のコリアタウンにつながる商店街の変遷を紹介した展示です。
1930年代、現在のコリアタウンの中心部にあたる御幸森通商店街の南側には、朝鮮半島出身の人々に食材や生活用品を供給する「朝鮮市場」がつくられました。当時は、路地裏に商店が集まり、地域の暮らしを支えていたといいます。戦時中、空襲を避けて商店主たちが疎開した後には、閉まった店の軒下に商品を並べて商売を始める人々もいました。
戦後になると、商店は路地裏から徐々に表通りへと広がっていきます。1959年には、現在のコリアタウンの東側に「千代市場」が設立され、その周辺にも商店が増えていきました。こうして、在日コリアンの生活を支える商店街が少しずつ形づくられていったのです。
しかし、1980年代に入ると、生活スタイルの変化や大型スーパーの進出によって、こうした商店街は次第に衰退していきました。そうした状況を変えようと動いたのが、地元の若手商店主たちでした。彼らは、商店街を単に地域住民が買い物をする場所としてではなく、朝鮮半島の食や文化を発信する場所へと変えていく「コリアタウン構想」を打ち出すに至ります。
展示を見終えて街に出ると、先ほどまで歩いていたコリアタウンの風景が少し違って映りました。店先に並ぶ韓国料理やスイーツ、K-POPのグッズを手に歩く人たち。その一つひとつの光景が、ただ新しくつくられた「韓国文化の街」ではなく、長い時間をかけてこの地域で暮らしてきた人々の営みの先にあるものだと感じたからです。
歴史資料館の外観
(2026年8月10日 筆者撮影)
歴史資料館を訪れる前に目にしていたのは、観光客でにぎわう現在のコリアタウンでした。しかし、歴史を知ったことで、その風景の中にかつてこの場所で商売をしていた人や、地域で暮らしていた人たちの姿を重ねて考えるようになりました。
コリアタウンを訪れる目的は、人によってさまざまです。韓国料理を食べるため、K-POPのグッズを買うため、街の雰囲気を楽しむため。筆者自身も、これまではそうした楽しみ方の場所として見ていました。
だからこそ、街を訪れた人が少し足を止め、どのような時を経て今の姿になったのかを知ることができれば、目の前の風景の見え方も変わるのではないか。歴史資料館で見た写真や資料を記憶に残したまま、再びコリアタウンの通りを歩いたとき、私はそんな思いにとらわれました。


