水俣病70年(上) 不知火海で起きた悲劇、繰り返された不条理の原点

5月1日、水俣病の公式確認から70年の節目を迎える。患者と認められたのは、熊本・鹿児島両県で2284人。生存している患者の平均年齢は82歳と高齢化が進む(2026年3月末時点)。患者や支援者らは、70年間の年月をどのように生きてきたのか。そもそも、水俣病とはどのような病で、どのような悲劇をもたらしたのか。

 

■70年前、不知火海で起きた悲劇

水俣市は、熊本県の鹿児島県境に位置する。西側に広がる不知火海(正式名称:八代海)は「魚湧く海(いおわくうみ)」と称されるほど水資源が豊かで、漁業が盛んな地域だった。朝ごはんも魚、昼ごはんも魚。不知火海沿岸にすむ人々は、魚を食べて生きていた。

(引用:2026年4月7日付 朝日新聞デジタル 「しのぶの70年 終わらない水俣病:1」)

「もはや戦後ではない」という言葉が「経済白書」に登場した1956年、不知火海に面した水俣湾のそばに住む幼い姉妹2人に言語障害、歩行障害などの症状が現れた。診察した医師らは姉妹の症状を「容易ならざる事態」として、原因不明の神経症状として水俣保健所に届け出た。水俣病の公式確認である。

不知火海沿岸地域では、数年前から猫や鳥が狂死していた。発作を起こし、体を痙攣させる。壁に激突したり海に飛び込んだり、視野狭窄とみられる症状のある猫が多発した。海面には魚の死骸が大量に浮いた。

患者数が増加し始めたころ、猫、鳥さらには人間が発症した「奇病」は伝染病であるとのうわさが全市に広まる。患者や近親者らは伝染病隔離病舎に収容され、家には消毒剤がまかれた。「村八分」の状態に追い込まれた。

水俣市奇病対策委員会は同年8月、熊本大学医学部に「奇病」の原因究明を依頼した。熊大研究班が便宜的に「水俣病」と呼称していたことから、水俣病と呼ばれるようになる。

熊大研究班は水俣に通い、患者らが日常的に口にする米や魚介類、水俣湾の海水など、考えられる原因を追究した。同年11月に発表した第1回研究結果では、水俣病が重金属中毒であること、人体への侵入は現地の魚介類によること、そして、汚染源としてチッソ(旧・新日窒)水俣工場の排水が疑われることが記された。

 

■チッソの城下町、水俣

水俣工場が稼働を始めたのは、日本が近代国家へと基盤を固めつつあった1908年。誘致合戦の末、熊本県水俣村に化学工場がつくられた。26年には、工場前に国鉄水俣駅が開業。31年には昭和天皇が工場を視察されている。日本の国力を支える重要産業であった。

太平洋戦争中には米軍機による空襲を受け、一時操業不能となった。しかし、戦後は政府による資金・資材の提供を受けて目覚ましい復興を遂げる。チッソの肥料は食料生産を支え、化学製品は高度経済成長をけん引した。製造するアセトアルデヒドはビニールやプラスチックなどの中間原料であり、当時の日本に欠かせなかった。水俣はチッソとともに、村から町、市へと発展していった。

水俣病が公式確認された1956年、チッソは熊大研究班の調査結果に反論した。水俣病と工場排水との因果関係を否定したうえで、増産に増産を重ねた。通産省(当時、現在の経産省)や熊本県はこれに対し、何の指導もしていない。

アセトアルデヒドの生産には、触媒として無機水銀を使用する。この無機水銀は生成過程で有機水銀となり、メチル水銀が生成される。工場排水としてメチル水銀は不知火海に流れ、それを食べたプランクトン、魚、人間へと濃縮されていった。体内に入ったメチル水銀は、脳の神経を壊す。これが水俣病の原因であった。

 

(2025年5月1日筆者撮影 熊本県水俣市、チッソがメチル水銀を含む工場排水を垂れ流した原点の地として知られる百間排水口)

チッソは68年にアセトアルデヒドの生産を中止するまで、有毒のメチル水銀を垂れ流し続けた。政府が水俣病の原因はチッソ排水中のメチル水銀であると公式に発表し、水俣病を公害病だと認定したのもこの年であった。最初の患者が出てから、12年も経過していた。

 

■胎盤を通して水銀中毒となった胎児性水俣病患者

メチル水銀が脳の神経を壊すと、見る、聞く、話す、歩くことが不自由になる。見た目にはわかりづらくとも、頭痛や手足のしびれ、感覚障害などの症状が現れることもある。完全に治す方法は、いまだ存在しない。

水俣病は感染も遺伝もしない。だが、水銀に侵された魚介類を食べることなく、水俣病患者として生まれた子どもはいる。メチル水銀が母親の胎盤を通って赤ちゃんに被害を及ぼす「胎児性水俣病」である。

 

(引用:2026年4月7日付 朝日新聞デジタル 「いちからわかる!水俣病70年、解決していない?」 )

当時の医学では「毒物は胎盤を通らない」ことが常識とされていた。胎児性水俣病の発見に関わった医師の一人原田正純さんは自著で「(当時の医学上)母親に大した症状もなく、胎児にだけ重篤な障害を与えるなどということは信じられなかったし、そのような報告は世界中になかった」と記している(『豊かさと棄民たち』p27)。

しかし、胎盤が水銀を防ぐことはなかった。むしろ、胎児のメチル水銀濃度は、母親の体内より高くなった。出産に向けて栄養を取ろうと母親が食べた魚介類に「毒」が含まれているとは、思いもよらなかっただろう。

 

■裁判闘争と政治的解決

水俣病が公害病と認定された翌年の1969年6月、患者や家族らは裁判闘争に踏み切った。29世帯112人が、チッソを相手に6億4千万円超の慰謝料を請求し、熊本地裁に提訴した。これに対しチッソは、排水による被害は予見できなかったとして全面的に争った。

73年3月20日、原告勝訴の判決が言い渡され、同年7月にはチッソとの補償協定が結ばれた。判決の慰謝料に加え、生活年金や医療費等の手当てが盛り込まれた。患者らの生活基盤は、ようやく整い始めたように思われた。

しかしながら、厳格な認定基準により膨大な未認定患者が発生する。環境庁(当時、現在の環境省)は、複数の症状が組み合わさっていることを認定の条件にした。多くの申請者が棄却される事態となり、再び裁判闘争の動きが広がった。

95年、村山富市内閣は一定の症状がある未認定患者に一時金などを支給する解決策を閣議決定した。一回目の政治的解決である。これは認定申請や訴訟の取り下げを条件としており、国に賠償を求める訴えは関西訴訟を除いて取り下げられ、患者認定を求める人の数は激減した。

2004年、唯一訴訟を続けていた関西訴訟の最高裁判決が下されたことにより、状況は一変する。一回目の政治的解決で確定した認定基準より幅広い症状を水俣病と捉え、国と熊本県にも責任があるとの判断を下した。行政と司法で、認定基準が食い違う事態となる。この5年後、「あたう限りの救済」を掲げた水俣病被害者救済法(水俣病特措法)が成立し、より広い行政的救済の仕組みが成立した。

二度の政治的解決で約7万人の「被害者」が補償・救済されたが、この対象にすら入ることのできなかった患者もいる。原則として不知火海周辺地域への居住歴などが要件となっており、地域外の場合は「汚染された魚介類を多食した」ことの証明が求められた。年月の経過により、今さら証拠を提示することは難しい。特措法で救済されなかった被害者らは、いまだ患者認定を求める裁判を続けている。

 

■差別と偏見、いまだ「未解決」な水俣病

感染症と疑われた奇病への恐怖、戦前から存在した漁業者への職業差別の名残、補償金目当てという誹謗。その理由はさまざまに変化しながらも、患者や不知火海沿岸地域への差別・偏見は残り続けた。

こうした差別や偏見の背景にも、チッソの姿が見え隠れした。水俣工場は水俣市において最大の雇用主であったため、公害被害を訴えた人は「地域の発展を阻害する裏切り者」として攻撃の対象になった。「患者はチッソをいじめるな」というビラがまかれ、当時の水俣市長は「チッソを守るためには全国の世論を敵に回してでも闘う」と語った。会社によって街が発展したゆえに、その責任を追及することが困難であったのだ。

朝日新聞と熊本朝日放送、鹿児島放送、熊本学園大学水俣学研究センターによる共同調査では、患者・被害者らのうち約67%が、水俣病は「解決していない」と回答した。その理由として、まだ救済されていない被害者がいること、裁判を起こしている人がいること、差別や偏見があること、などが挙げられている。水俣病に「解決」のときは来るのだろうか。そもそも「解決」とは、どのような状況を指すのだろうか。

経済優先の時代に犠牲を強いられた地方。多くの命が奪われ、自由に生きるという尊厳が傷つけられた。今日、世界各地で繰り返される武力紛争や不条理な事態に共通する悲劇の本質が水俣には現れていた。公式確認から70年という節目を迎える今、水俣の歴史に向き合うことに大きな意義がある。

 

本稿は、上・中・下の三部構成でお届けします。次回(中編)は5月1日に公開予定です。胎児性水俣病患者として語り部活動を続ける松永幸一郎さん(62)にお話を伺い、患者と家族が歩んできた激動の年月をたどります。

 

参考記事:

・2026年4月28日付 朝日新聞(西部) 朝刊20面 「水俣病70年 アンケートから:中 地域年齢線引きする国」

・2026年4月27日付 朝日新聞(西部) 朝刊1面 「水俣病67%が『未解決』」

・2026年4月26日付 読売新聞(西部) 朝刊25面 「時との闘い 水俣病70年:中 救済線引き解決の壁」

・2026年4月25日付 読売新聞(西部) 朝刊29面 「時との闘い 水俣病70年:上 胎児性患者高齢不安」

・2026年4月24日付 朝日新聞(西部) 朝刊29面 「水俣病認定 二審も棄却」

・2026年4月8日付 朝日新聞(西部) 朝刊25面 「しのぶの70年 終わらない水俣病:2 『娘おいて死ねない』泣いた母」

・2026年4月7日付 朝日新聞デジタル 「しのぶの70年 終わらない水俣病:1「異変」に揺れる街に生まれ」

https://digital.asahi.com/articles/DA3S16439142.html

・2026年4月7日付 朝日新聞デジタル 「いちからわかる!水俣病70年、解決していない?」

https://digital.asahi.com/articles/DA3S16439141.html

・2025年8月21日付 朝日新聞(西部) 朝刊21面 「水俣病は遺伝しない 発信の必要」

 

・2026年4月28日付 西日本新聞 朝刊12・13面 「水俣 重い問いかけ」

・2026年4月22日付 西日本新聞 朝刊22面 「水俣病認定義務付け訴訟 感覚障害のみ患者認定は」

 

参考文献:

・『水俣病闘争史』,米本浩二,2022年,河出書房

・『水俣病にみる国家の犯罪』,馬場昇,2009年,熊日情報文化センター

・『豊かさと棄民たち』,原田正純,2007年,岩波書店

・『水俣 胎児との約束 ―医師・坂井八重子が受けとったいのちのメッセージ』,矢吹紀人,2006年,大月書店

・『新装版 苦海浄土 わが水俣病』,石牟礼道子,2004年,講談社文庫

 

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