石川県金沢市、浅野川に沿って風情ある料理屋や茶屋が並ぶ主計町茶屋街を通り、昼間でも薄暗い石段が続く「暗がり坂」を上がると、レンガ造りの建物が見えてきます。世界でただひとつの蓄音機の博物館、「金沢蓄音器館」です。
初代館長の八日市屋浩志氏は戦前、北陸地方では有数の蓄音機店を営んでいました。1975年ごろ、粗大ごみとして捨てられていた手回し式の蓄音機に心を痛め、工房で修理し始めました。彼は日本各地をトラックで駆け回り、100台以上を回収。その後、寄贈を含めると蓄音機は600台以上、SPレコードは4万枚以上になりました。2001年、金沢市の協力により、金沢蓄音器館が開館しました。明治から昭和までに使われた蓄音機、SPレコードなどが展示されており、世界中のオーディオマニアがこぞって訪れるそうです。
「これから蓄音機10台で聴き比べをするのですが、よろしければどうですか?」
館内のスタッフが笑顔で迎えてくれました。生まれてこの方、実物の蓄音機さえ見たことがなかったので、全く想像がつきません。案内されるまま会場に着くと、ずっしりとした蓄音機がずらりと並んでいました。小型から背丈ほどのものまで、姿かたちはどれも個性的でした。数分後、二代目の館長がゆっくりと蓄音機の横にあるハンドルを回しながら、それぞれの紹介をしてくれました。
「これが何か分かりますか」
館長が手にしていたのは、黒っぽい筒です。しかし、よく見てみると細かい溝が、ぐるぐる刻まれています。最初のレコードは筒型でした。そこから次第に円盤型となり、LPレコードへと進化しました。当初は音楽を流すというよりは、「人間の声を録音再生する」ことが主目的だったそうです。
「では実際に聴いてみましょう」
静かに針を落とすと、非常に力強く、そして温かみを帯びた音が響きました。これが約100年前の音なのかと疑ったほどです。ノイズも少なく、しっかりと音が粒になって聴こえます。想像以上の音に驚きを隠せませんでした。
次々と詳しい解説をしてもらい、最後は大きなラッパが特徴的な蓄音機を聴きました。ラッパの口の大きさは人の上半身が隠れてしまうほど。本体含めての値段は家が一軒購入できるくらいです。どの蓄音機よりも音が立体的で、まず歌手の声が迫り、その背景として演奏が聴こえてきました。ステレオという概念がない時代でも、すでにそれに近い技術は確立されていたのでしょうか。
材質は紙で、もとはイギリスの電話帳だったそうです。それに倣い、日本でも一年以上かけて新聞紙のラッパを作った人がいました。ライトで照らすと、記事が見えるそうです。手作りでより良い音質を目指す姿が目に浮かんできました。尊敬しかありません。
演奏会が終わり、展示品を見ていると気になるものがありました。実際に使われていた針です。しかし、名前が特徴的で「竹針」「バラのトゲ針」「永久針」などと書かれています。スタッフに聞くと、本物の竹やトゲを使って聴いていたそうです。
一番頑丈なのはダイアモンド製の針。今では普通ですが、当時はあまりにも高価なので売れませんでした。そこで鉄製の針が登場しましたが、戦争中に鉄は軍需物資として供出され、身近なものをアレンジして聴くしかありませんでした。竹針は鉄針よりも減りが早く、専用のはさみで先端部を切りとり、繰り返し使用していました。椿油で熟成させると、よりまろやかな音色を出すため、専用の容器に詰めることもあったそうです。
レコードもそうですが、アナログの魅力はこういう点にあると思います。筆者もオーディオセットを一式揃えましたが、「針が○○」「ケーブルの素材が△△」とこだわっていると、気づいたら何百万円もかかってしまうでしょう。「自分に合った音を追求する」ことへの情熱は、100年以上経っても変わらないようです。
よく「なんでそこまでして音楽にお金をかけるの」「レコードなんて古いね」と聞かれます。レコードよりもCDの方が安く、ネットなら無料で聴くことができます。またスピーカーがなくても、高性能なヘッドホンやイヤホンが手軽に買えます。しかし、前回の記事でも言いましたが、「どのように音楽と向き合っているか」を自分自身に問うてほしいのです。
アナログの時代には一時停止や早送りといった機能はありません。自分の好きな曲だけを聴くにも、LPであればじっくり待たなければなりません。盤もデリケートなので、静電気やほこりが溝に溜まっただけで、プチプチとノイズが入ります。中古レコードを購入するたびに、盤面が非常にきれいなことに感心させられます。
博物館を訪れて感じたのは「技術によって人間は退化しているのかもしれない」という、ぼんやりとした不安です。昔のほうがクリエイティブで、どんな手段を使ってでも聴いてやろうとする情熱が感じられます。
よく「今の曲は薄っぺらい」「なんかつまらない」と言う人がいますが、それは好みの問題だと思います。素晴らしい音楽は今の時代でも溢れています。下の画像を見て下さい。
「His Master’s Voice」というイギリス人の画家が描いた絵です。ビクターのロゴにもなっているので、一度は見たことがあるかと思います。もともと彼の兄が飼っていた犬で非常に賢かったのですが、お客さんの足を噛むことがあったので、名前は「ニッパー」(噛む、はさむという意味)と呼ばれていました。しばらくして兄は他界し、画家の弟が引き取ることになりました。ある日、たまたま家にあった蓄音機で兄の声を流したところ、耳を傾けて懐かしい主人の声を聴いていたそうです。
一度だけでもいいので、ニッパー君のように音楽に耳を傾けて、じっくり鑑賞してみてはどうでしょうか。きっと今までとはまったく異なった発見が、スピーカーから伝わってくるはずです。イヤホンからは聞こえなかった細かい音、アーティストの息遣いなど、繊細でパワフルな世界を堪能できます。
最後に、温かく迎えてくださった金沢蓄音器館の館長、スタッフの皆様に、心から感謝申し上げます。
参考資料: