「障害者」は不要なのか

事件の残虐性と容疑者の偏った思想が世間に衝撃を与えた、相模原・知的障害者施設殺傷事件。この事件の裁判員裁判が始まったのに合わせ、障害者やその家族、支援者らでつくるグループが11日、横浜市内でシンポジウムを開き意見を交わしました。

驚くことに、SNSでは事件に対して賛否両論の意見が飛び交っています。植松聖被告(29)の「優生思想」に賛同あるいは共感する声が散見されるのです。私なりに、この事件についていくつか考えたことを述べたいと思います。

 

・障害者とはなんなのか

そもそも、「障害」というのは社会が作り出しているものです。多数派である人々を「健常者」として、その人たちに合わせて社会が設計されています。もし、目が見えない人が多数派の社会だったら、視覚に訴えるような製品やサービスが街中に溢れることはないでしょう。「障害者」が劣っているのではなく、社会が彼らに適合していないと考えることができるはずです。

容疑者は、意思疎通のできない障害者を狙ったとされています。被害者たちは、私たちが今使っているコミュニケーション方法では意思疎通をはかることができないかもしれません。けれど、多数派が用いる手段の有無で人の価値を判断するのは、思慮に欠ける行為ではありませんか。

 

・社会的に「有益」かどうかで人の価値は決まるのか?

人間は、誰もが弱い部分を持っていて、多かれ少なかれどこかに生きづらさを抱えています。失敗をすることも過ちを犯すこともあります。その点で、障害者であろうとそうでなかろうと、意思疎通ができようとできまいと、等しくハンディキャップを背負っていることに変わりはありません。

また、私たちは一人では生きていくことができません。他人の助けを借り、支え合って生きています。その大小はあれども、お互いが持ちつ持たれつの関係を持つ世の中で、なぜ障害者だけを「劣勢」と捉え「不要」と言い切ることができるのでしょうか。「不寛容な社会」の蔓延に恐怖を感じます。

 

・自分や家族が被害者であったなら

もしも自分自身が被害者だったらどうでしょうか。あるいは、家族が被害に遭っていたらどうでしょう。遺族の中にも様々な立場があるようですが、大切な家族を失った遺族の存在を忘れてはなりません。

たとえ、容疑者や社会が被害者たちを必要としなかったとしても、家族にとってはただそこにいてくれるだけで十分かもしれないのです。その「愛する人に生きていてほしい」と思う気持ちを否定することは誰にもできないはずです。犯行は、そんな遺族の気持ちを踏みにじる行為であり、到底許されるものではありません。

 

・誰もが「加害者」になりうる

一方で、このような主張をする私自身も、時に人に厳しくなっていることに気がつきます。「誰もが平等」であってほしいと思っている反面、日常ではつい自分に都合の良いように考えているのも現実です。だから、一方的に加害者を責めることはできません。自分の中にも弱い心や汚い心があることを受け入れて、事件を自分の問題として捉えることが大切です。

 

今後も裁判の動向に注目していきたいと思います。

 

 

参考:

12日付 日本経済新聞朝刊31面(社会)「自身の問題と考えて」