「ありがとう」は強制的に言うべき?-勤労感謝を前に考える

 

11月も下旬に差し掛かろうとしている今日この頃。留学先の韓国は明日、最低気温がマイナス6度まで下がるといいます。九州出身の筆者は前日から絶望感にとらわれています。しかしどれだけ願っても明日は来るもの。まだ始まったばかりですが、すぐ週末がやってくるでしょう。

さて今週の土曜日といえば勤労感謝の日です。驚くことに今年の祝日はこれで最後。即位に伴い、天皇誕生日が2月23日に変わったからです。筆者が通っている大学は祝日もいつも通りに授業があるため気にかけなくなりましたが、高校生までは祝日の存在が大事でした。わかりきったことですが、授業のない貴重な休日だったのです。裏を返せば、それぞれの祝日にどのような意味が込められているのか、深く考えてきませんでした。

そんな「祝日にあまり関心のない」筆者は、本日の日本経済新聞朝刊に一つ、どうも腑に落ちない記事が。教育面の「勤労感謝集会 消えた大切な行事 復活を」です。端的に言えば、心の中で感謝していても表に出せない子供が少なくなかったことから、小学校で勤労感謝集会を開催したという内容でした。この記事を読んで初めてこの集会の存在を知ったのですが、90年代以前は給食調理員や学童擁護員、町会の方など子どもが普段お世話になっている人々に小学生が感謝を伝える、11月の定番行事だったようです。

この記事に違和感を覚えたのは、教師目線のみで話が完結してしまっていることです。冒頭から『「ありがとうが言えないな」』と現代の子供に対する不満をぶつけ、最後にも『最近では世話をしてもらうことを、子どもが当たり前と感じてしまう傾向が強い』の一文。勤労感謝集会を開催してからの感想といえば、『児童からは「~のおかげで」「~に感謝の気持ちを伝えたい」という言葉が多く聞かれるようになった。現在「感謝の気持ちを持つ」は我が校の校風となっている』。どうも教師側のうぬぼれに思えてなりません。

まず感謝の言葉を口にする子供が少なくなったとは、どうやったら以前と比較できるのでしょうか。「ありがとう」と口にせずとも、行動で示している場合もあります。そもそも子供たちは今この時代しか知らず、教員の幼少期など知りようもありません。あの頃はよかったと見知らぬ時代と比べられては、反抗のしようもないでしょう。

しかも大人が集会を開き、強制的に感謝の気持ちを述べさせるのは正しいことなのでしょうか。自分で考え、人にお礼をしたいときに言葉にする。それがあるべき姿でしょう。行事化し、義務としてやらなければならないのでは、「ありがとう」と言われる側も複雑な気持ちになりそうです。

教師たちの意見だけでなく、子供の声も取り入れ、過去に縛られず、どうしたら相手に感謝の気持ちを伝えることが出来るのか。一から考えたいものです。

 

参考記事:

11月18日日本経済新聞朝刊13版教育面「勤労感謝集会 消えた大切な行事 復活を」