批判が目的になってませんか

2020年度開始予定の大学入学共通試験において、英語の民間試験を活用する制度の運用が見送られて、当初は学校や生徒の混乱に焦点を当てた報道がされてきました。

この問題に拍車をかけたのは萩生田文部科学大臣によるいわゆる「身の丈発言」。地方や貧しい家庭とそうでない家庭の間における差を容認したと受け止められ批判を浴びました。

「身の丈に合った受験を発言したら批判を受けるなら、逆に背伸びしてまで受験するのか」と過度な批判への冷静な想いが心のどこかにある筆者ですが、そうは言ってられず、結局英語の民間試験の活用は見送られることになりました。

萩生田大臣の発言の前後にもこの制度への批判は一定程度ありました。「都市部に住んでおり受験会場へのアクセスが容易な家庭とそうでない地方の格差が広がる」だったり「高い受験料は貧しい家庭にとって重荷だ」「お金にゆとりのある家庭の子はたくさん受験して練習できてしまう」といった論調が主なものでしょうか。

しかし、いざ制度の運用が見送られることになると、今度はそれに伴う混乱を強調した報道一辺倒になりました。「この時期の見送りは学生に混乱を与える」「練習のため受験予定だった試験の受験料をどうすればいいのか」「学校現場は大迷惑」・・・。

今回の制度とそれを所管する文科省への批判では一貫しているこれまでの論調。しかし、いずれも活用見送りの前から分かっていた懸案です。最初から両論併記で「見送りを求める声がある一方、この時期での見送りは懸念もある」と議論すればよかったのに、と残念に感じます。

また、英語の民間試験活用と並ぶ改革として、国語や数学の試験において記述試験が導入されることになっており、こちらも批判の矢面に立たされています。6日には都内の高校生が4万2千人分の署名を文科省に提出して、試験の中止を求めました。

将来を占う大学入試に対する心配が大きいのはよくわかります。でも、今の高校生がするべきことは、署名集めにいそしむことではなく、その間にもしっかり勉強して与えられた環境で精いっぱいの力を出せるよう絶えず努力することだと思います。

入試制度などというものは、受ける人ではなく主催する国や大学が制度を作らなければなりません。昨日今日決まった話ではないのに、なぜ今になって中止を求めるのか。そして中止したら「学校現場では混乱が広がり~」という批判をもう一度繰り返すのでしょうか。それが生産的な議論だとは思いません。

参考記事:

10日付 日本経済新聞朝刊 3面(総合2)「英語試験団体 深まる困惑」

参考記事:

6日付 朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASMC66J6JMC6UCVL03J.html