「表現の自由・不自由展」で物議を醸した「あいちトリエンナーレ2019」。毀誉褒貶さまざまな評価がなされた「表現の自由・不自由展」であるが、その運営母体である「あいちトリエンナーレ」の全容はメディアではあまり取り上げられていない。そこで時間を持て余している筆者は、友人とともに「あいちトリエンナーレ」を訪れた。
メイン会場は「愛知芸術文化センター」。ここでの作品展示や公演の数が最も多く「あいちトリエンナーレ」の玄関口的な存在である。国内外の有名なアーティストによる作品が一堂に会しており、訪れた者を現代美術の世界へと誘う。
ウーゴ・ロンディノーネ作「孤独のボキャブラリー」。さて、筆者はどこにいるでしょう。9月12日、「あいちトリエンナーレ 2019」にて筆者撮影。
「花より団子」の筆者には、現代美術は難し過ぎ、終始、「考えされられるなぁー」と作品に対して表面的なコメントしかできなかった。ちなみに、これは「あいちトリエンナーレ」がしょうもないからではなく、当方の感性に問題があるからだが。
その様な「芸術音痴」にも、琴線に触れた作品があった。ラッパーによって朗読された戦前のアジア主義のテキストがモニターから聞こえてくるという映像展示であった。
アジア主義といえば、「アジアは一つ」をスローガンに、日本がアジアを侵略する際に大義名分として利用された言い回しであり、反動的として戦後長きにわたり省みられることのなかった思想である。そのアジア主義が、「現代」と冠しているアートの祭典でなぜ蘇ったのか。
企画者である演出家高山明氏によると、「アジア主義のテキストを更新し、ヒップホップによって『アジア』を接続する」ためであるそうだ。
――アジア主義によって、アジアを接続する。
高山氏はラップを利用し、若者を扇動することで、令和の世に「大東亜共栄圏」を再建しようとでもしているのか。
それは見当違いである。三つのモニターから流れてくるテキストは、岡倉天心の「東洋の理想」、柳宗悦の「朝鮮の友に贈る書」、孫文の「大アジア主義」である。三者はアジア主義者であったが、いや、だからこそ日本による侵略に反対し、友情と連帯を唱えた。彼らのようなアジア主義者は侵略を正当化した「大東亜共栄圏」とは別の道を日本近現代史に提示しており、もう一つの選択があったことを伝えている。
三人のアジア主義のテキストは、ソウル、台北、マニラのヒップホップ・コミュニティに持ち込まれ、それぞれの言語とスタイルでラップにされる。そして、「あいちトリエンナーレ」の最終日に、名古屋とアジア3都市で開催されるライブパーティーで同時中継され、アジア主義者が夢見たアジアの「連帯」が「パブリックスピーチ」として蘇るのである。
――なんて、壮大な芸術なんだ!
「芸術音痴」の私でもそのビッグプロジェクトには感嘆してしまった。
孫文の「大アジア主義」の映像展示。9月12日、「あいちトリエンナーレ 2019」にて筆者撮影。
かつて福沢諭吉は「支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず」、「亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と「脱亜」を唱えた。
一方で、同じ時期にアジア主義者の樽井藤吉は『大東合邦論』で日本と韓国の対等合併を主張した。そして、後年、彼の「対等合併論」が「日韓併合」という日本の一方的な併合につながったことは忘れてはならない。
現在、日韓関係は戦後最悪とまで言われている。雑誌を覗くと、「韓国なんて要らない」や「さようなら、韓国!」など隣国を見限る論調が見受けられる。
それらの雑誌と福沢諭吉の『脱亜論』を同等に並べるべきでは無いと思う。しかし、韓国とは距離を取るべきという点では共通している。
日韓関係が険悪になっている時代において、私たち日本人が「アジアとは何か」を考え続けた岡倉天心、柳宗悦、孫文のテキストをアジアの若者と共有することは、大変意義のある試みではないであろうか。
彼らアジア主義者によって唱えられたアジアの「情の連帯」は「ライブパーティー」で実現されるのだろうか。日韓は分かり合えるのか。『脱亜論』の道を選ぶべきなのか。アジアとはなんなのか。モニターから流れてくる孫文の「大アジア主義」の朗読を聞きながら考え込んだ次第である。
参考記事:
14日付 朝日新聞朝刊(大阪14版)「Question 最悪の日韓関係 改善への道筋は?」
参考資料:
「あいちトリエンナーレ2019」ホームページ
https://aichitriennale.jp/index.html
高山明/Part B『パブリックスピーチ・プロジェクト』チラシ
松本健一『竹内好 「日本のアジア主義」精読』岩波現代文庫、2000年