誰のための五輪なのだ

1月5日付のあらたにすに「五輪なんて、大嫌い」(http://allatanys.jp/blogs/7691/)と題した記事を執筆した。当初は「復興五輪」と言われていたものの、蓋を開けてみれば聖火リレーのスタート地点とサッカーやソフトボールの一部日程が福島市や宮城県内で開かれるだけ。「復興五輪とはいったい何なのだ」。東北の人間として抱き続けていた疑問を記事にした。数日後、記事を読んだ大学の友人から苦言を呈された。「お前の言うことは分からなくもない。しかしせっかくスポーツの祭典が日本で開かれるのだから、素直に喜んでも良いのではないか」。なるほど、私の訴えは友人にとって無粋に見えたのだろう。

それでも釈然としない思いは募る。街に出れば嫌という程五輪のエンブレムが目に入る。駅のポスター、空港の壁、タクシーのボディにも。皆一様に、開幕日の2020年7月24日を見つめている。開幕まで1年を切った今、各地でテストイベントも開かれているらしい。(7月19日付あらたにす「テストイベントが目白押し」参照 http://allatanys.jp/blogs/8881/)。自国でスポーツの祭典が開かれる。一生に一度あるかないか。だからここまで熱狂している。それはある程度理解できる。でも、私は共感を抱けない。

▲タクシーのボディ張り出される東京五輪のエンブレム。9日、東京都千代田区で筆者撮影。

▲朝刊に刻印されたエンブレム。8日付日本経済新聞朝刊より。

今日の朝日新聞朝刊では、作家の真山仁さんが東京五輪への疑問を述べていた。真山さんは当初の大会エンブレムが既存のデザインと酷似していたことや、新国立競技場の建設が予算超過のため一時白紙撤回となった経緯に疑問を唱えた上で、次のように語る。「何のための五輪なのか、誰のための五輪なのか、そして、そのために、あなたは何が出来るのか」。そうだ。五輪とはそもそも誰のためだったのか。

かつて市民から為政者までが唱えていた「復興五輪」はもはや形骸化している。東日本大震災や西日本豪雨の被災地では、五輪工事のために復興の人員不足が問題化した。地方では五輪のしわ寄せが来ている。そして、五輪が成功しても問題は終息しない現実がある。東京電力は8日、福島第一原発事故で発生した汚染水を貯めるタンクが2022年夏頃に満杯になる見通しを出した。今もしばしば「復興五輪」と発言する者を見かけるが、何を見て言っているのか理解できない。

では五輪とは首都のために開かれるのか。それも疑問である。開催期間中、鉄道利用者は1割増えると見込まれる。政府は在宅でのテレワークや時差出勤を呼びかける。また、鉄道会社は終電の時刻を遅らせる。一方、首都高の料金を一時的に値上げする議論も進む。先月24日には五輪に向けた大規模な交通規制実験が実施された。宅配業者は規制による配送遅れに気を揉み、タクシー運転手は混雑による売り上げの減少に悩んだ。五輪による経済効果は見込めても、流通業界の現場では混雑や残業が強いられるだろう。「限定的な措置だ」「五輪が終われば元通りになる」。確かにそうだが、五輪とは一部の人間が我慢をしてまで開くものなのだろうか。

他にも疑問は尽きない。訪日客のためにホテルが次々と建てられる。羽田空港の航空機発着数が増える。枕詞には「東京五輪・パラリンピックに向けて」。果たして五輪後も訪日客が増える当てはあるのだろうか。この国のゴールは2020年ではないはずだ。

「それは1年前にわざわざ言うことなのか」と、また友人から苦言を呈されるかもしれない。けれども私は言いたい。

誰のための五輪なのだ。

参考記事:
9日付読売新聞朝刊(東京13版)2面「処理水22年夏に満杯」
同日付朝日新聞朝刊(東京14版)1面「汚染水タンク 3年後に満杯」
同3面「汚染水長期保管 東電が難色」
同13面「なぜ今さら東京 『復興五輪』への疑問」
同日付日本経済新聞(電子版)「福島第1処理水 タンク増設の可否検討 経産省小委」
同朝刊(東京13版)3面「処理水とは 原発事故の汚染水を浄化した後の水」
7月24日付日本経済新聞(東京14版)2面「社説 五輪の課題への対策を着実に」
同日付同(電子版)「普段と違う首都高に困惑 交通規制ドキュメント」